「別れてくれ」
結婚二十年目の夜、夫の浩介はテーブルに離婚届を置き、淡々とそう言った。
私は言葉を失い、足元に落ちていた懐中時計をとっさに握りしめた。母の形見で、父の舞台の相棒だった時計だ。
浩介は視線も向けずに続けた。
「五十にもなって泣くような人間とは一緒にいたくない」
私は何も返せず、ただ立ち尽くした。
私は深沢里美、五十歳。スーパーで働く主婦だ。浩介とは二十年、静かに暮らしてきた。子どもはいないが、「二人で生きていこう」と誓ったはずだった。
しかし二週間前、味噌汁の具をきっかけに彼は豹変した。
「子どもがいないのは君のせいだろ」
私は何度も病院に行こうと提案した。だが拒んだのは彼だ。それなのに責任を押しつけてきた。
その夜、私は家を出て雨の中を歩いた。父の言葉が頭に浮かぶ。
――流れに逆らうな。ここだと思ったら飛び乗れ。
気づけば質屋の前に立っていた。
カウンターに時計を差し出すと、店員は白手袋で蓋を開き、刻印を見て息を呑んだ。
「小岡十字……?」
父の芸名だった。
店員は驚いた顔で言った。
「この時計は特注品で、当時有名だったものです」
提示された査定額は想像以上だった。
私は時計を握り直した。売るつもりで来たのに、手放せない。
――大事にすれば、それはお前を守る。
父の言葉がよみがえる。
私は顔を上げた。
「売りません。この時計は私の支えです」
そして翌日、弁護士事務所を訪れた。
離婚の経緯、生活費、財産分与を一つずつ説明する。
話し合いの席で、浩介は初めて動揺した。
「そこまで大げさにしなくても……」
私は静かに答えた。
「大げさではありません。二十年です」
結果、財産分与と慰謝料は正式に決まり、私は自分の意思で家を出た。
今、私は小さな部屋で新しい生活を始めている。仕事を続けながら、父の舞台の資料を集めている。
懐中時計は今日も静かに時を刻む。
それは過去に縛る音ではなく、前に進むための音だった。