「ごめん。高校を辞めて、働いてほしいの」
母にそう言われたのは、高校二年の春だった。
父はすでに家を出ており、家には母と私だけ。家賃、光熱費、食費、母の通院費。机の上に並んだ請求書を見て、私は何も言えなかった。
本当は学校を辞めたくなかった。制服も、友達も、まだ諦めたくなかった。けれど、母が震える声で「お願い」と言った瞬間、私は頷くしかなかった。
高校を中退し、昼は小さな店で働き、夜は接客の仕事に入った。眠る時間を削り、毎月二十万円以上を母に渡した。
母はいつも「ごめんね、いつか必ず返すから」と言った。私は少しだけ笑って、「いいよ、親子でしょ」と答えた。
そんな生活が三年続いたある朝、母は突然倒れ、そのまま帰らぬ人となった。
葬式の後、私は片づけのために母の部屋を開けた。古い引き出しの奥に、母の通帳があった。
残高を見た瞬間、私は息が止まった。
そこには、私が渡していたお金が、ほとんど手つかずのまま残されていた。
さらに通帳の間には、一枚の封筒が挟まっていた。
「あなたがもう一度学校に行きたくなった時のために。これはお母さんからの返済です」
その文字を読んだ瞬間、涙が止まらなくなった。
母は私のお金で楽をしていたわけではなかった。自分の生活を削りながら、私の未来だけを守っていたのだ。
私は通帳を抱きしめ、声にならない声でつぶやいた。
「お母さん、遅すぎるよ。でも、ありがとう」
その日初めて、私の中で止まっていた時間が、静かに動き出した。