
店内が静まり返った。
もえの髪から、お茶がぽたぽたと落ちている。
「泣くんじゃねえよ」
男はそう言って、まるで何もなかったかのように席を立った。
大将が怒鳴る。
「ふざけるな!警察呼ぶぞ!」
でも男は、一万円札を叩きつけて、そのまま出て行った。
私は、すぐには動けなかった。
ただ、もえを抱きしめた。
震えていた。
「大丈夫、大丈夫よ」
そう言いながら、心の中では完全に切り替わっていた。
――これは、このまま終わらせない。
その場で、私は一本の電話をかけた。
相手は、その男が名乗っていた銀行の支店長。
実は、うちはその銀行の大口顧客だった。
長年の取引で、預金も運転資金も預けている。
事情を簡単に伝えると、支店長の声色が一瞬で変わった。
「すぐ確認いたします」
それだけで十分だった。
数日後。
大将から連絡が入った。
「例の男、また来てるぞ」
私は、店に向かった。
あえて何事もなかったように、隣に座る。
男はすぐに気づいた。
「また来たのか、卵の貧乏人」
私は笑わなかった。
ただ、同じネタを注文した。
白身、イカ、ホタテ。
男は得意げに講釈を始める。
「寿司はこうやって食うんだ」
そのタイミングで、私は静かに言った。
「それ、うちのスーパーの寿司ですよ」
男の動きが止まる。
「は?」
大将が頭をかく。
「悪いな、英子ちゃんに出すやつ間違えた」
男は皿を見る。
自分が“高級寿司”だと思って食べていたものが、
実はスーパーの寿司だった。
顔色が変わった。
完全に固まっていた。
その時だった。
暖簾が揺れる。
「鈴木様、お待たせしました」
入ってきたのは、銀行の支店長だった。
男の顔が一気に青ざめる。
「な、なんで支店長が…」
支店長はスマホを取り出し、動画を見せた。
あの日の映像。
暴言も、お茶をかけた瞬間も、全部映っている。
「山下、お前は何をしている」
低い声だった。
でも、それだけで十分だった。
男はその場で崩れた。
「申し訳ありませんでした…!」
土下座だった。
でも私は、ただ一言だけ言った。
「孫にしたことは、消えません」
支店長に向き直る。
「明日、口座を解約に伺います」
その一言で、すべてが終わった。
数日後、噂を聞いた。
男は地方へ異動になったらしい。
一方で、店は以前より忙しくなった。
「スーパー鈴木の寿司、美味しいらしい」
そんな話が広がったからだ。
私は、もえの手を握る。
「今日は何食べる?」
もえは迷わず言った。
「タマゴ!」
その笑顔を見て、思った。
本当に価値があるのは、
誰かを見下すことじゃない。
好きなものを、胸を張って食べられることだ。