その夜、私は焼き鳥を食べに行くつもりだった。
仕事終わりの駅前は少し湿った空気に包まれていて、路地の奥から炭火の香りが漂ってくる。同僚から「あそこは焼き鳥だけは本当にうまい」と聞いていた私は、友人と一緒に店へ向かった。
ただ、その友人は車で来ていた。
だから酒は飲めない。
私は軽く一杯飲むつもりだったが、友人は焼き鳥と烏龍茶だけの予定だった。
ところが店の入口で二人同時に足が止まった。
白いボードに大きくこう書かれていたのだ。
「当店は呑み屋です」
さらにその下には、
「必ず全てのお客様にお酒のご注文をしていただきます」
と続いていた。
私は思わず二度見した。
全てのお客様。
つまり、運転する友人も例外ではない。
そして最後には、
「どうぞ他店へ行かれてください」
という強烈な一文まで書かれていた。
友人は苦笑いしながら言った。
「俺、入る前に戦力外通告されたんだけど」
私も笑ったが、正直少し引いた。
焼き鳥がおいしいと評判の店なのに、そこまで言う必要があるのだろうか。
飲めない人だっている。
車の人もいる。
薬を飲んでいる人もいる。
事情は人それぞれだ。
そう思っていた時だった。
店の入口で若いグループが店主と話している声が聞こえてきた。
「焼き鳥だけ食べたいんですけど」
店主は落ち着いた声で答えた。
「申し訳ありません。うちは居酒屋なので」
「水だけじゃダメですか?」
「お受けしておりません」
「一杯だけ注文して飲まなきゃいいですよね?」
「お酒をご注文いただくお店です」
淡々としたやり取りだった。
怒鳴り合いでもなく、感情的でもない。
ただ店主は同じ説明を何度も繰り返していた。
その様子を見ているうちに、私は少しだけ考えが変わった。
たぶん、この店主は何度も同じことを経験してきたのだろう。
席数の少ない店で、炭を起こし、仕込みをし、酒と料理で店を回している。
そこへ「焼き鳥だけ食べたい」「水だけでいい」と言われ続ければ、経営として成り立たなくなる。
さらに看板には別の注意書きもあった。
「騒ぐ方、香水が強い方は店主判断で退店していただきます」
そこまで書くということは、そこまでの客が実際にいたのだろう。
炭火と焼き鳥の香りを楽しむ店に、強い香水で来る人。
大声で騒ぐ人。
長時間居座る人。
店主の貼り紙は、客への攻撃ではなく、長年積み重なった疲労の結果なのかもしれない。
結局その日は別の店へ行った。
友人は焼き魚定食を頼み、私は瓶ビールを一本注文した。
乾杯しながら、さっきの貼り紙の話になった。
「水だけでいい、我慢するって言われてもな」
私が言うと、友人は笑った。
「店側が我慢できなくなったんだろ」
その一言で妙に納得した。
数日後、私は一人でその焼き鳥屋へ行った。
ちゃんと酒を注文した。
焼き鳥は評判通りうまかった。
店内は静かで、炭のはぜる音だけが聞こえる。
騒ぐ客もいない。
香水の匂いもしない。
店主は無愛想だったが、焼き台の前では真剣そのものだった。
私は焼き鳥を食べながら思った。
あの貼り紙は客を追い払うためではない。
店の空気を守るための壁なのだ。
もちろん言葉はかなり強い。
だが、入店してから揉めるより、最初からルールを示してくれる方が親切なのかもしれない。
「どうぞ他店へ行かれてください」
あの一文を思い出しながら、私は思わず笑った。
あれは注意書きではない。
店主が長年の経験から編み出した、最終防衛ラインだったのである。