大学病院の自動ドアを抜けた瞬間、
消毒薬の匂いが肺の奥まで入り込んだ。
白い天井。
無機質な照明。
規則正しく響く足音。
その空気に触れた瞬間、
私は一瞬だけ息が詰まった。
ここは、
かつて私が“医者になる”と信じていた場所だった。
そして、
夢を途中で諦めて逃げ出した場所でもある。
受付前で診察券を握り直す。
その時だった。
背後から、
聞き覚えのある笑い声が聞こえた。
振り返った瞬間、
私は固まった。
看護師の制服を着た女性。
元恋人だった。
学生時代、
同じ医学部に通っていた女。
私が解剖実習で失敗し、
留年ギリギリになり、
精神的に潰れかけていた時、
隣にいた人間。
でも最後には、
一番深く私を刺した人だった。
「……久しぶり」
私がそう言うと、
彼女は一瞬目を見開き、
すぐ口元を歪めた。
そして、
全身を値踏みするように見た。
磨いた革靴。
新調したスーツ。
でも、
そんなものは意味がなかった。
彼女は笑った。
「まだ生きてたんだ」
その言葉だけで、
昔と何も変わっていないと分かった。
そして続けた。
「医学部中退した“高卒の貧乏人”さんw」
周囲の空気が少し止まった。
受付近くの患者が、
一瞬こちらを見る。
でもすぐ視線を逸らした。
病院って、
そういう場所だ。
誰かの尊厳が削られていても、
みんな見ないふりをする。
私は何か言い返そうとして、
やめた。
言い返せなかった。
だって、
図星だったから。
私は医学部を中退した。
医者になれなかった。
親にも失望された。
同級生にも置いていかれた。
コンビニで夜勤しながら、
中古の参考書を捨てた夜を、
今でも覚えてる。
彼女は続ける。
「今なにしてるの?」
「まだ医者になりたいとか思ってる?」
笑いながら、
わざと周囲に聞こえる声で言った。
「ここ、大学病院だよ?」
「努力した人だけが立てる場所」
「あなたみたいな人じゃなくて」
胸が痛かった。
でも、
怒りじゃなかった。
昔の自分を思い出して、
苦しかっただけだ。
その瞬間だった。
後ろから、
落ち着いた女性の声が聞こえた。
「教授、診察の時間です」
空気が変わった。
私は振り返る。
白衣姿の女医が立っていた。
三十代前半くらい。
髪をきっちりまとめ、
タブレットを抱えている。
その後ろには、
研修医や若い医師たち。
そして全員が、
自然に私へ道を空けた。
元恋人の顔が凍る。
「……え?」
女医は淡々と言った。
「本日のカンファレンス資料、
すべて準備できています」
「教授、こちらへ」
その瞬間、
周囲の視線が完全に変わった。
人って、
肩書き一つで態度を変える。
昔、
私はそれを憎んでいた。
でも今、
その中心に立っている。
元恋人は混乱していた。
「ちょ、ちょっと待って……」
「教授って、どういうこと……?」
私は静かに彼女を見た。
見返したかったわけじゃない。
でも、
過去の自分へ決着をつける必要はあった。
「中退したのは事実だよ」
私はゆっくり言った。
「だから、
君が見下したくなるのも分かる」
彼女は何も言えない。
私は続けた。
「でも、
あれで終わりじゃなかった」
医学部を辞めた後、
私は臨床工学技士として働いた。
手術室。
ICU。
透析室。
現場で、
医療を学び直した。
昼は働き、
夜は研究。
論文を書き、
統計を独学し、
海外ジャーナルへ投稿し続けた。
何度も落とされた。
笑われた。
「中退のくせに」
そう言われたこともある。
でも、
それでも続けた。
見返したかったんじゃない。
自分を、
見捨てたくなかった。
女医が横で小さく頷く。
彼女は共同研究者だった。
私は医師ではない。
でも、
診断支援AIと臨床統計の研究責任者として、
この大学病院へ招かれている。
だから、
教授と呼ばれている。
元恋人の唇が震えた。
「そんなの……聞いてない……」
私は少し笑った。
「言ってないからね」
彼女は何か言おうとした。
でも言葉が出ない。
私は最後に言った。
「高卒で貧乏人だったのは事実だ」
「だから必死だった」
「でも、
人生って意外と終わらない」
周囲を、
研修医たちが静かに見ていた。
その時、
女医が時計を確認する。
「教授、時間です」
私は頷いた。
そして、
元恋人へ一度だけ頭を下げた。
礼儀として。
過去への区切りとして。
「患者さんの前では、
誰かを傷つけない方がいい」
「君も、
いい看護師なら分かるはずだ」
彼女は何も返せなかった。
私はそのまま、
白い廊下を歩き出した。
背中に視線を感じる。
でも、
もう痛くなかった。
かつて夢を失った場所で、
私は別の形で医療に戻ってきた。
白衣の意味は、
資格だけじゃない。
誰かを救う責任を、
最後まで捨てなかった人間に、
与えられるものだ。
私はもう、
振り返らない。
振り返る必要がない。
白い廊下の先には、
今この瞬間も、
救いを待っている患者がいるのだから。