「足を滑らせたんだ」――崖から落ちた私に夫が最初に言った言葉を、一生忘れられない
2026/05/18

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結婚してからの夫は、外では完璧な人だった。

穏やかで、優しくて、仕事もできる。
友人たちは「理想の旦那さんだね」と言い、両親も安心していた。

だからこそ、誰にも分からなかった。

家の中でだけ見せる、あの冷たい目を。

怒鳴るわけじゃない。
殴るわけでもない。

ただ静かに、
私の自由を削っていく人だった。

「君は考えすぎ」
「そんなこと言ったら周りに変だと思われるよ」
「俺が管理した方が上手くいく」

気づけば私は、自分の判断より夫の顔色を優先するようになっていた。

妊娠が分かった時、

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私は少しだけ期待した。

この子が生まれれば、
夫も変わるかもしれない。

そう思ってしまった。

だから結婚記念日の旅行を提案された時も、
私は断れなかった。

「気分転換しよう」
「最近頑張ってたから」

優しい言葉だった。

あの日までは。

展望台にはほとんど人がいなかった。

風が強く、
崖の下では波が岩にぶつかっていた。

夫はスマホを構え、
私に笑いかけた。

「あと一歩後ろ」
「その方が景色が入る」

私は怖くなって、

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足を止めた。

その瞬間だった。

背中に、
はっきりとした力を感じた。

押された。

そう理解した時には、
もう体が浮いていた。

次に目を開けた時、
私は病院のベッドの上にいた。

全身が痛く、
お腹を真っ先に触った。

赤ちゃんは生きていた。

涙が止まらなかった。

けれど夫は、
私を見るなり優しく抱きしめた。

「よかった…本当によかった…」

その姿は、
まるで悲劇を乗り越えた夫そのものだった。

医師にも、
警察にも、

夫は完璧に振る舞った。

「妻が足を滑らせたんです」
「私がもっと注意していれば…」

でも夜になると、
夫の声は変わった。

「余計なこと言うなよ」

低い声だった。

「家族を壊したいのか?」

その瞬間、
私は理解した。

この人は、
私が生きていたことを喜んでいない。

スマホは返してもらえなかった。

「壊れてたよ」
と夫は言った。

パスポートも財布も、
全部夫が持っていた。

私は海外で、
言葉も通じず、

一人で立つことすらできない状態だった。

怖かった。

もし逆らったら、
今度こそ殺される。

本気でそう思った。

だから私は、
怯えた妻を演じた。

泣いて、
混乱したふりをして、
夫に従うふりをした。

生き残るために。

数日後、
夫が病室の隅で電話している声が聞こえた。

「保険金は――」

その言葉で、
背筋が凍った。

テーブルには、
旅行直前に契約した保険の書類。

受取人欄には、

夫の名前。

私は震える手で、
看護師にメモを書いた。

「通訳を呼んで」
「夫が怖い」
「事故ではない」

看護師の表情が変わった。

通訳が来た瞬間、
私は初めて呼吸ができた気がした。

全部話した。

崖で押されたこと。
スマホを取り上げられたこと。
夫が説明を急がせていたこと。

警察が来た時、
夫は笑っていた。

「妻はショック状態なんです」

その笑顔を見た瞬間、

私は吐き気がした。

でももう、
黙らなかった。

声を奪われたまま生きる方が、
死ぬより怖かったから。

帰国してからも、
地獄は終わらなかった。

事情聴取。
弁護士。
病院。
住所変更。
届き続ける通知。

何度も、
何度も、
同じ話を繰り返した。

でも私は、

毎日ひとつだけ決めていた。

「今日は自分で決める」

食べるものでも、
行く場所でも、
誰に連絡するかでもいい。

少しずつ、
奪われた人生を取り戻すために。

今でも、
夜に着信音が鳴ると体が固まる。

背中に風を感じると、
あの日を思い出す。

それでも私は生きている。

もう二度と、
“守られているふり”の中で、
自分を失わないために。

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