結婚してからの夫は、外では完璧な人だった。
穏やかで、優しくて、仕事もできる。
友人たちは「理想の旦那さんだね」と言い、両親も安心していた。
だからこそ、誰にも分からなかった。
家の中でだけ見せる、あの冷たい目を。
怒鳴るわけじゃない。
殴るわけでもない。
ただ静かに、
私の自由を削っていく人だった。
「君は考えすぎ」
「そんなこと言ったら周りに変だと思われるよ」
「俺が管理した方が上手くいく」
気づけば私は、自分の判断より夫の顔色を優先するようになっていた。
妊娠が分かった時、
私は少しだけ期待した。
この子が生まれれば、
夫も変わるかもしれない。
そう思ってしまった。
だから結婚記念日の旅行を提案された時も、
私は断れなかった。
「気分転換しよう」
「最近頑張ってたから」
優しい言葉だった。
あの日までは。
展望台にはほとんど人がいなかった。
風が強く、
崖の下では波が岩にぶつかっていた。
夫はスマホを構え、
私に笑いかけた。
「あと一歩後ろ」
「その方が景色が入る」
私は怖くなって、
足を止めた。
その瞬間だった。
背中に、
はっきりとした力を感じた。
押された。
そう理解した時には、
もう体が浮いていた。
次に目を開けた時、
私は病院のベッドの上にいた。
全身が痛く、
お腹を真っ先に触った。
赤ちゃんは生きていた。
涙が止まらなかった。
けれど夫は、
私を見るなり優しく抱きしめた。
「よかった…本当によかった…」
その姿は、
まるで悲劇を乗り越えた夫そのものだった。
医師にも、
警察にも、
夫は完璧に振る舞った。
「妻が足を滑らせたんです」
「私がもっと注意していれば…」
でも夜になると、
夫の声は変わった。
「余計なこと言うなよ」
低い声だった。
「家族を壊したいのか?」
その瞬間、
私は理解した。
この人は、
私が生きていたことを喜んでいない。
スマホは返してもらえなかった。
「壊れてたよ」
と夫は言った。
パスポートも財布も、
全部夫が持っていた。
私は海外で、
言葉も通じず、
一人で立つことすらできない状態だった。
怖かった。
もし逆らったら、
今度こそ殺される。
本気でそう思った。
だから私は、
怯えた妻を演じた。
泣いて、
混乱したふりをして、
夫に従うふりをした。
生き残るために。
数日後、
夫が病室の隅で電話している声が聞こえた。
「保険金は――」
その言葉で、
背筋が凍った。
テーブルには、
旅行直前に契約した保険の書類。
受取人欄には、
夫の名前。
私は震える手で、
看護師にメモを書いた。
「通訳を呼んで」
「夫が怖い」
「事故ではない」
看護師の表情が変わった。
通訳が来た瞬間、
私は初めて呼吸ができた気がした。
全部話した。
崖で押されたこと。
スマホを取り上げられたこと。
夫が説明を急がせていたこと。
警察が来た時、
夫は笑っていた。
「妻はショック状態なんです」
その笑顔を見た瞬間、
私は吐き気がした。
でももう、
黙らなかった。
声を奪われたまま生きる方が、
死ぬより怖かったから。
帰国してからも、
地獄は終わらなかった。
事情聴取。
弁護士。
病院。
住所変更。
届き続ける通知。
何度も、
何度も、
同じ話を繰り返した。
でも私は、
毎日ひとつだけ決めていた。
「今日は自分で決める」
食べるものでも、
行く場所でも、
誰に連絡するかでもいい。
少しずつ、
奪われた人生を取り戻すために。
今でも、
夜に着信音が鳴ると体が固まる。
背中に風を感じると、
あの日を思い出す。
それでも私は生きている。
もう二度と、
“守られているふり”の中で、
自分を失わないために。