玄関を開けた瞬間、私は言葉を失った。
外は刺すような寒さだった。そんな中、玄関先に小さな女の子が一人で立っていた。パジャマの上にダウンジャケットを着ただけの姿で、手も頬も冷えきっている。年齢は、見たところ三歳くらいだった。
「お名前、言える?」
しゃがんで聞くと、その子は小さな声で答えた。
その苗字を聞いた瞬間、背筋が冷たくなった。
夫の旧姓だった。
しかも、めったにない苗字。偶然とは思えない。私はすぐ夫に連絡し、交番にも事情を伝えた。調べてもらうと、その子はやはり夫の姪だった。夫の弟の子どもらしい。
問題は、私たち夫婦はその家と絶縁していたことだった。
私は夫の実家の事情をほとんど知らない。夫は昔から家族の話をしたがらず、私も無理に聞いたことはなかった。結婚にも出産にも、夫の実家は一切関わっていない。だから突然、会ったこともない三歳の姪が、他県にある我が家の玄関に置かれていたことが信じられなかった。
家に入れると、その子はひな飾りを見て、少しだけ表情を明るくした。
うちは事情があってひな飾りを長めに出していた。高校生の娘にはもう飾るだけのものだったけれど、その子は小さな手で人形を眺めながら、おとなしくままごとを始めた。
それが余計につらかった。
泣き叫ぶわけでもない。わがままを言うわけでもない。ただ静かに、まるで迷惑をかけないようにしている。
昼はお粥を出した。普段何を食べているのか聞くと、菓子パンやカップ麺、ファストフードの名前が出てきた。三歳の子の口から出るには、あまりに寂しい食事だった。
その夜、誰も迎えに来なかった。
姪は何度も「ママは?」と聞きながら眠った。
私は胸が痛くなった。こんな小さな子を、寒い玄関に置いていける母親がいるのか。しかも絶縁中の親族の家に、連絡もなく放置するなんて普通ではない。
夫は弟に電話していた。
けれど、迎えに来させるどころか、怒鳴っていた。
「母親に来させろ!」
私は違和感を覚えた。母親が最低なのは分かる。でも、父親である弟は何をしているのか。
母親が来なければ、この子はずっとここにいるのか。
翌朝になっても、母親は戻っていなかった。夫はまた弟に電話し、「嫁が迎えに来るまでは渡さない」と怒鳴っていた。
私はついに我慢できなくなった。
「もういい加減にして!すぐ弟さんに迎えに来させて!」
すると夫はしばらく黙り込んだあと、低い声で聞いてきた。
「風呂に入れた時、アザや怪我はなかったか」
「脇の下や太ももの内側も見たか」
私はそこで初めて、夫の怒りの理由を少しだけ理解した。
夫の父親は、酒を飲むと家族に手を上げる人だったらしい。夫が実家と絶縁した理由も、それが関係していた。夫は姪の母親を責めたいのではなく、実家でまた何か暴力が起きているのではないかと疑っていたのだ。
その日の夜、夫は仕事帰りに実家の様子を見に行った。
そして数日後、事情が少しずつ分かった。
弟嫁は不倫していた。
それが弟と義父に知られ、ひどく暴力を受けて逃げ出したらしい。
逃げる時、義父に「子どもがどうなっても知らないぞ」と脅され、姪を連れて出た。
だが、不倫相手からは「子どもは置いてこい」と言われた。
行き場をなくした弟嫁は、昔聞いていた夫の家の場所を頼りに、姪をうちの玄関へ置いていったのだ。
しかも弟嫁のお腹には、不倫相手の子どもがいるという。
弟は五十代。弟嫁は二十代前半。高校中退後、でき婚したらしい。弟には離婚歴も複数あった。聞けば聞くほど、まともな家庭環境ではなかった。
最終的に、姪は施設に行くことになりそうだと聞いた。
かわいそうだと思った。
でも、私はその判断に反対できなかった。
あの家に戻すことが本当に安全なのか。母親は逃げたい。父親は守れない。祖父は暴力を振るう。そんな場所に、三歳の子を戻していいとは思えなかった。
夫はようやく私に話してくれた。
「実家があまりにひどくて、情けなくて、話すのに時間がかかった」
私はその言葉で、少しだけ夫を責める気持ちが消えた。
夫は姪を拒絶していたのではない。
自分が必死に逃げてきた地獄が、また玄関先に現れたことに耐えられなかったのだ。
寒い玄関に立っていた小さな女の子。
ひな飾りで静かに遊んでいた姿。
「ママは?」と何度も聞きながら眠った声。
私はきっと、ずっと忘れられない。
子どもは親を選べない。
だからこそ、大人の都合で置き去りにされていい命なんて、一つもないのだ。