3月末から一人暮らしを始めた。
最初の違和感は、帰宅した日の玄関だった。
脱ぎ散らかしたはずのスリッパが、きちんと揃えられている。
「え……?」
気のせいだと思った。疲れているだけだと。
でも翌日も、その次の日も同じだった。
部屋に入ると、朝そのまま出していった食器が洗われている。
床に散らばっていた段ボールが、きれいに畳まれて端に寄せられている。
鍵はかけている。
貴重品もなくなっていない。
怖くなって母に電話した。
「来てないよ?」
その瞬間、背中が冷えた。
じゃあ、誰が?
しばらくして、インターホンが鳴った。
ドアを開けると、隣に住む大家の女性が立っていた。
手にはタッパー。
「野菜も食べなきゃね。冷蔵庫、空っぽはダメよ」
中には、ほうれん草と油揚げの煮物と、きゅうりのぬか漬け。
私は思わず聞いてしまった。
「……あの、部屋、片付けてくれたのって……」
大家は悪びれもせず、笑いながら言った。
「そうそう。散らかってたからねぇ」
一瞬、言葉が出なかった。
「え……勝手に入ってるんですか?」
「鍵、合うのよねぇ。朝忙しいのは分かるけど、食器は洗わないとダメよ」
その日から、違和感は“確信”に変わった。
帰宅すると部屋は整っている。
確かに便利だ。確かに助かる。
でも、それは「知らない誰かが毎日入っている」という現実でもあった。
同僚に話すと、即答だった。
「それ、絶対ヤバいやつ。普通引っ越すよ」
やっぱりそうなのか、と少し安心した反面、
どこかで“この快適さ”を手放したくない自分もいた。
そしてある日、仕事から帰ると、部屋の空気が少し違っていた。
いつもより丁寧に揃えられたスリッパ。
机の上に、見たことのないメモ。
「ちゃんと食べてる?」
その瞬間、またインターホンが鳴った。
ドアを開けると、大家がいつもより少しだけ真剣な顔をしていた。
「ねぇ、このままでいいと思ってる?」
その一言で、やっと気づいた。
この人は“ただ片付けている人”じゃない。
静かに、部屋の境界線が崩れていく音がした。