去年、私は妻と離婚した。理由は彼女の不貞だった。
ある日、スーパーで偶然、元妻の父親に会った。彼はためらいながら言った。
「娘が癌なんだ。余命があまりない。そして……君に一度会いたいと言っている」
私は手に持っていた醤油のボトルを思わず落としそうになった。店内では特売のアナウンスが流れていたが、私の耳には「余命がわずか」という言葉だけが重く響いていた。
義父はかつて私を見下していた人だ。しかしその日は白髪が増え、疲れ切った様子だった。
「君が恨んでいるのは分かる。でも、あの子はもう起き上がるのもやっとなんだ」
私は何も答えず会計を済ませた。袋の中には、季節外れで高いイチゴが入っていた。元妻が好きだったものだ。
店を出ると、義父は言った。
「彼女は市立病院の302号室にいる。もし時間があれば……会ってやってほしい」
帰り道、私は車を路肩に停めた。離婚して一年、仕事も家も変え、彼女の物はすべて処分した。それなのに、頭の中には昔の彼女の笑顔ばかり浮かんでいた。
翌日、私は休暇を取り、リンゴを一つ持って病院へ行った。
302号室で見た彼女は、痩せて別人のようだった。灰色の帽子をかぶり、点滴を受けている。私を見ると涙を流した。
「来てくれたんだね」
私は椅子に座り、静かに言った。
「お父さんから聞いた」
彼女はかすれた声で言った。
「ごめんなさい……。あの時、私は間違えた。あなたと過ごした日々が一番幸せだった」
私はカレンダーを見つめながら答えた。
「もう過ぎたことだ」
彼女が「もしやり直せたら」と言いかけた時、私は静かに遮った。
「やり直せない」
十分ほどで席を立った。彼女は引き止めず、「気をつけて帰って」とだけ言った。
五日後、義父から電話が来た。
彼女は午前三時、静かに亡くなったという。手には、私が贈った時計を握りしめていたらしい。
私は葬式には行かなかった。恨んでいたわけではない。ただ必要がないと思っただけだ。
その夜、私はインスタントラーメンを作り、卵を一つ多く入れた。昔、彼女がいつもそうしてくれていたからだ。
食べていると、涙がどんぶりに落ちた。
スープは、少しだけ塩辛くなった。
離婚してから胸の奥に残っていた重い石が、ようやく静かに砕けた気がした。