あの日、俺は二十年間続けた大工の仕事に区切りをつけ、大手ハウスメーカー「DQハウス」の営業として新しい人生を始めるはずだった。
「現場を知る営業になってほしい」
そう言われて入社を決めた。
ところが初出勤の日、用意されていたのは歓迎ではなかった。
「今日からだっけ?悪い悪い。まだパソコンも席も準備してなくてさ」
部長の長谷川は笑いながらそう言った。
午前中、俺は何もすることがなく、社員の仕事を見ているだけだった。
そして昼休み。
長谷川部長がカップラーメンを差し出しながら言った。
「これ、僕の好きなラーメン。鉄さんの生きた知恵への感謝の印です」
まだ何一つ仕事をしていない俺に「感謝」。
その言葉が冗談ではなく、現場上がりの人間を見下す嫌味だということくらい、すぐに分かった。
「嫌ならもういいですよ?」
そう笑われた瞬間、俺の中で何かが切れた。
「じゃあ、やめます」
「……え?」
「会社をです。本日付で退職します」
その日の午後、俺は退職届を書き、その足で以前から声をかけてもらっていたライバル会社「バストラハウス」へ向かった。
すると社長は笑顔で迎えてくれた。
「鉄さん、お待ちしていました。あなたの現場経験が必要なんです」
初日から、自分の知識を営業提案に生かしてほしいと言われた。
同じ建築会社なのに、ここまで人の扱いが違うのかと驚いた。
俺は昔から付き合いのある職人仲間へ、「転職しました」とだけ連絡した。
ただ、それだけだった。
ところが数日後、DQハウスでは大騒ぎになっていた。
俺と長年仕事をしてきた協力会社や職人たちが、一斉に契約更新を断ったのだ。
「鉄さんがいる会社なら安心して仕事ができる。」
「現場を大事にする人についていきたい。」
そんな声が広がり、何十人もの職人がバストラハウスへ移った。
長谷川部長から何十件も着信が入っていた。
「頼む、戻ってきてくれ!今なら退職はなかったことにする!」
俺は静かに答えた。
「申し訳ありません。人を大切にしてくれる会社で働きたいので。」
職人不足に陥ったDQハウスは、五十億円規模の再開発工事が止まりかけた。
本来なら工期延期を発注者へ相談すべきだった。
しかし長谷川部長は自分の評価が下がることを恐れ、会社にも報告せず、格安で請け負う無名の施工会社と独断で契約を結んだ。
「安く済めば利益も守れる。」
その判断が、会社を地獄へ落とすことになる。
工事は一応完成した。
だが完成から一か月後、大雨が降ると商業施設は天井から大量の雨漏り。
ブランドショップの商品は全滅。
地下駐車場では柱に無数のひび割れが見つかり、住民は避難騒ぎになった。
調査の結果、施工不良が次々と発覚。
慌てて施工会社へ連絡すると、
「この電話番号は現在使われておりません。」
会社ごと姿を消していた。
責任を逃れようと長谷川部長と部下二人は退職届を提出した。
しかし社長は冷たく言い放った。
「重大な過失による損害です。退職は認めません。本日付で懲戒解雇とし、会社が負担する損害について民事訴訟を起こします。」
数年後。
判決が下った。
長谷川元部長には約三億円。
部下二人にもそれぞれ二千万円の損害賠償命令。
さらに業界中へ情報が広まり、再就職先は一社も見つからなかった。
一方の俺は、バストラハウスで毎日忙しく働いている。
営業になって改めて分かったことがある。
家を建てるのは会社の看板じゃない。
現場で汗を流す人間への信頼だ。
それを笑った人間は、最後には会社も、自分の未来も失うことになった。