「お父さんとお母さんは、遠くで大事な仕事をしてるんだ」
10歳だった私は、
兄のその言葉をずっと信じていた。
——いや、
本当は違った。
私は気づいていた。
お母さんが、
もう帰ってこないこと。
お父さんが、
私たちを置いて消えたこと。
でも私は、
知らないふりをした。
だって、
お兄ちゃんが毎日、
苦しそうな顔で笑っていたから。
兄・ヒロトは、
当時21歳だった。
都内の有名大学で建築を学び、
教授からも期待される存在だったらしい。
でも、
両親がいなくなった日、
兄の人生は全部変わった。
大学を辞めた。
夢も諦めた。
そして、
たった一人で私を育て始めた。
朝5時に起きて建設現場へ。
夕方まで働き、
夜はコンビニ。
土日は引っ越し作業。
ボロボロの体で帰ってきても、
兄はいつも笑っていた。
「美、今日は学校どうだった?」
本当は疲れてるはずなのに、
私の話をちゃんと聞いてくれた。
私はそんな兄を見て、
子どもながらに思った。
「私は迷惑をかけちゃいけない」
だから料理を覚えた。
洗濯もした。
掃除もした。
兄が少しでも楽になるなら、
何でもしたかった。
でも、
一番苦しかったのは、
兄がずっと一人で泣いていたこと。
夜中、
トイレに起きた時。
暗い台所で、
兄が一人、
通帳を見ながら頭を抱えていた。
肩が震えていた。
でも朝になると、
何事もなかったみたいに笑う。
その姿が、
私はずっと苦しかった。
高校生になる頃には、
私は進学を諦めようとしていた。
お兄ちゃんに、
これ以上負担をかけたくなかった。
でも兄は怒った。
「美の夢を奪うために頑張ってきたんじゃない!」
その言葉を聞いた瞬間、
私は初めて、
兄の前で声を上げて泣いた。
だから決めた。
絶対に先生になるって。
絶対に、
お兄ちゃんを幸せにするって。
それから何年も経って、
私は教師になった。
そして今日、
結婚式の日を迎えた。
親族席には、
兄が一人だけ座っている。
白髪も増えた。
手も、
昔よりずっとゴツゴツしていた。
その手が、
私を育ててくれた。
司会者からマイクを渡された時、
私は決めていた。
今日だけは、
全部伝えようって。
「お兄ちゃん、私、本当は全部知ってたの」
会場が静まり返る。
兄の顔が、
一瞬で崩れた。
私は涙をこらえながら続けた。
「ずっと知らないふりしてた。だって、お兄ちゃん……私の前では絶対泣かなかったから」
兄は下を向いたまま、
肩を震わせていた。
「大学辞めてくれてありがとう」
「一人で育ててくれてありがとう」
「お兄ちゃんがいたから、私は幸せだった」
その瞬間。
ずっと泣かなかった兄が、
子どもみたいに声を上げて泣いた。
会場中が涙だった。
私は思った。
血の繋がりだけじゃない。
人生をかけて守ってくれた人こそ、
本当の家族なんだって。