仕事帰り、私は一人で近所の居酒屋に立ち寄った。軽く飲んで帰るつもりで、焼き鳥と小鉢、レモンサワーを一杯。店内はほどよく賑わっていて、カウンターの端で静かに過ごすにはちょうどよかった。
会計をお願いすると、店員が伝票を見ながら言った。
「2600円です」
私は財布から千円札を三枚出し、「はい」と差し出した。ところが、店員は受け取ったまま、なぜか黙って私の顔をじっと見つめている。
「……」
その目つきが妙に険しくて、私は思わず固まった。
え? なに?
もしかしてお金、足りなかった?
それとも何か失礼なことをした?
頭の中で必死に計算する。2600円に対して3000円。お釣りは400円。合っているはずだ。けれど店員は何も言わず、ただこちらを見ている。店内のざわめきまで遠く感じるほど、その沈黙は長かった。
体感では二十秒。実際にはもっと短かったのかもしれない。
でも、こちらとしては十分すぎるほど気まずい時間だった。
耐えきれず、私は小さく聞いた。
「あの……何か?」
すると店員は、ようやく口を開いた。
「お客様、これ……二千円です」
見ると、私が千円札三枚だと思って出した中に、千円札は二枚しかなかった。残り一枚は、なぜかレシートの束だった。財布の中で折り重なっていたものを、完全にお札だと勘違いしていたのだ。
顔から火が出るかと思った。
「あっ、すみません!」
慌てて本物の千円札を出すと、店員は少しだけ表情をゆるめ、「いえ、大丈夫です」と静かにお釣りを渡してくれた。
怒っていたわけではない。ただ、どう伝えるべきか迷っていたらしい。
店を出たあと、夜風に当たりながら、私は一人で苦笑した。あの二十秒の沈黙は、店員の圧ではなく、私の財布の中の小さな罠だったのだ。