その日も、外来は朝から混雑していた。
発熱患者。
腹痛。
転倒。
高齢者の付き添い。
受付は常にバタバタで、ナースコールも鳴りっぱなし。
私はカルテを抱えて診察室と待合室を何度も往復していた。
そんな時だった。
「ちょっと!」
突然、待合室から強い声が飛んだ。
振り向くと、五十代くらいの女性患者がこちらを睨んでいる。
私はすぐ近づいた。
「はい、どうされましたか?」
女性は私の顔ではなく、指先を見ていた。
「その爪、何?」
一瞬、意味が分からなかった。
視線の先には、自分のネイル。
薄いベージュ。
光沢もほとんどない、病院規定内のものだった。
派手なデザインでもない。
「仕事中にそんな爪でいいんですか?」
その言い方は、まるで私が重大なルール違反でもしているみたいだった。
私は落ち着いて答えた。
「衛生面や業務に問題はありません」
すると女性は鼻で笑った。
「患者は苦しんでるのに、あなたはおしゃれ?」
待合室が、一瞬で静まり返った。
周囲の患者たちがこちらを見る。
私は言葉を失った。
女性はさらに続ける。
「ここは病院ですよ?」
「遊びに来てるんじゃないんです」
「医療従事者なら、もっと患者の気持ち考えなさいよ」
その場で反論することもできた。
でも私は何も言わなかった。
こういう人は、“説明”じゃなく、“叩く対象”を探している時がある。
その日は、それで終わった。
でも数日後。
院内掲示板に、新しい紙が貼られた。
「患者様からのご意見」
そこには、あの日の言葉とほとんど同じ内容が並んでいた。
「医療従事者がキラキラしていると患者は良い気がしません」
「ここは病院です。オシャレは休日にして下さい。」
私は、その紙の前で立ち止まった。
何とも言えない気持ちになった。
後ろから同僚が苦笑いする。
「またクレームか」
「……ですね」
彼女は疲れた顔で言った。
「私たち昨日も残業4時間だよ?」
本当にその通りだった。
夜勤明けでも人手不足。
急患対応。
クレーム処理。
食事もろくに取れない日だってある。
それでも笑顔で患者対応をしている。
なのに。
問題になるのは、“ネイル”。
そこへ主任が来た。
「見た?」
私はうなずく。
「病院として、どうするんですか?」
主任は少し考えて言った。
「規定内なら問題なし」
「特別に禁止はしない」
その言葉に、少しだけ救われた。
だが、その日の午後だった。
例の女性患者が、再び現れた。
そして掲示板の前で腕を組みながら言った。
「で?ちゃんと対応したの?」
私は受付近くにいた。
女性は私を見るなり、露骨に顔をしかめる。
「まだその爪なの?」
その瞬間だった。
近くの椅子に座っていた年配の男性患者が、静かに口を開いた。
「お嬢さん」
女性が振り向く。
男性は杖を握ったまま言った。
「この看護師さん、朝からずっと動いてるの見てたよ」
待合室が静かになる。
男性は続けた。
「私が転びそうになった時も、すぐ来てくれた」
「血圧で気分悪くなった人にも、一番に走ってた」
そして、静かに言った。
「爪より大事なものがあるだろ」
空気が変わった。
女性の表情が固まる。
すると別の患者も口を開いた。
「俺もそう思う」
「そんなの気にしたことないよ」
「助けてもらえれば十分」
「ネイルより態度の方が大事」
声が次々と重なる。
さっきまで“正論を言ってる側”だった女性が、一気に孤立していく。
女性は周囲を見回した。
でも、誰も味方しない。
舌打ちして言った。
「……もういいです」
そして、そのまま病院を出ていった。
待合室に、小さな拍手が起きた。
私は思わず頭を下げた。
泣きそうになるのを、必死で堪えながら。
その日以来、掲示板の紙はそのまま貼られている。
でも、誰も気にしなくなった。
むしろ、あの紙を見るたびに思う。
患者の痛みは理解したい。
苦しい時、人は余裕を失うこともある。
でも——
医療従事者だって、人間だ。
誰かを助ける側だからって、感情まで消して生きているわけじゃない。