有休明けの日だった。
仕事を終えて、
いつも通り帰宅した。
妻からは昼間、
短いLINEが来ていた。
「今日は早く帰れそう」
それだけ。
特に深く考えていなかった。
でも玄関を開けた瞬間、
妙な空気を感じた。
静かすぎる。
リビングへ向かうと、
妻がソファに座っていた。
背中を向けたまま、
動かない。
「ただいま」
そう声をかけても、
返事がない。
違和感を覚えて近づいた瞬間、
俺は固まった。
妻の背中。
白いシャツに、
赤いマーカーで文字が書かれていた。
『給料泥棒でごめんね♡』
意味が分からなかった。
冗談?
悪ふざけ?
でも次の瞬間、
妻の肩が小さく震えていることに気づいた。
泣いていた。
「……何これ」
自分でも驚くくらい、
低い声が出た。
妻はゆっくり振り返った。
目が真っ赤だった。
「職場で……いたずらされて……」
その瞬間、
頭の奥で何かが切れた。
妻は元々、
有休を取ることに罪悪感を持つタイプだった。
迷惑かけてないか。
周りに嫌われてないか。
いつも気にしていた。
そんな人間の背中に、
これを書いた?
しかも、
“♡”付きで?
悪意しかない。
俺は深呼吸した。
怒鳴るな。
冷静になれ。
でも、
怒りは消えなかった。
「責任者、誰?」
妻は慌てて言った。
「いいよ……大ごとにしたくない……」
でも俺は、
スマホを手に取った。
会社へ電話した。
事情を説明すると、
最初は軽い反応だった。
「確認しますので……」
その瞬間、
俺ははっきり言った。
「今回の件、
看過できません」
空気が変わった。
俺は続けた。
「社員への嫌がらせを放置する会社と、
今後も取引を続けるべきか、
こちらも再検討します」
沈黙。
電話の向こうの声が、
明らかに変わった。
慌てて責任者が出てきた。
「詳しくお話を……」
俺は感情ではなく、
事実だけを並べた。
「誰が書いたのか」
「なぜ止められなかったのか」
「管理体制はどうなっているのか」
「再発防止策は?」
責任者は言葉を詰まらせていた。
妻は横で、
まだ涙をこぼしていた。
俺はそっと手を握った。
「大丈夫」
「もう一人で我慢しなくていい」
数日後。
会社は正式に調査を開始。
書いた社員は特定され、
厳重処分になった。
さらに、
社内体制も見直されたらしい。
その報告を聞いた時、
妻は静かに泣いていた。
悔しかったんだと思う。
怖かったんだと思う。
ずっと、
一人で耐えていたんだと思う。
あの日、
俺は初めて知った。
“たかがイタズラ”って、
やった側だけが言う言葉なんだって。
笑い半分の悪意は、
人を壊す。
心を削る。
自分の価値まで疑わせる。
だからこそ、
見過ごしちゃいけなかった。
その夜。
妻は少しだけ、
安心した顔をしていた。
俺は背中にそっと手を添えて言った。
「もう大丈夫」
「今度は、
ちゃんと俺が守るから」