1994年2月、7人の登山グループがスキーを使って吾妻連峰を縦走する計画を立てた。リーダーは登山歴30年のベテランで、他の参加者も経験者ばかりだった。だが、この登山は出発前から小さな誤算が重なっていた。
東京駅で予定していた新幹線に乗れず、福島駅到着は遅れた。さらにスキーキャリア付きのタクシーが見つからず、移動にも時間を失った。スキー場では強風でリフトの一部が止まり、予定外にスキーで登る区間が増えた。登山届も提出しないまま、彼らは大幅に遅れて入山した。
午後、分岐点に着いた時、管理人のいる山荘へ泊まる選択肢もあった。しかし一行は予定通り、無人の家形山避難小屋へ向かった。小屋では酒と食料を広げ、宴会が始まった。一方、近くの山荘では管理人が「明日は大荒れになる」と警告し、他の登山者たちは下山や停滞を選んでいた。
翌朝、空は一見穏やかだった。だがそれは疑似好天だった。出発後まもなく天候は急変し、強風と吹雪で視界は奪われた。
目印を見失った一行は、白浜と霧の平の間を何時間も彷徨う。疲労と寒さは容赦なく体力を削り、やがて女性メンバーたちが次々と動けなくなった。
装備は山小屋泊を前提としたもので、雪洞を掘るスコップも、十分なビバーク装備もなかった。低体温症は静かに進み、仲間たちは一人、また一人と意識を失っていった。
最終的に2人は自力で下山し、救助を求めた。しかし山に残された5人は、捜索隊が到着した時にはすでに命を落としていた。登山経験があっても、準備不足と判断の遅れは命取りになる。引き返す機会は確かに何度もあった。その一つを選べなかったことが、悲劇を決定づけた。