その日の私は、名古屋市営地下鉄東山線に乗っていた。
時間帯は人の移動が多い頃。
栄駅に着いた瞬間、たくさんの乗客が一気に降りていった。
そのタイミングで、私はたまたま空いた席を見つけて座った。
正直、少し疲れていた。
立ちっぱなしだったので、やっと一息つけると思った。
でも、電車が発車してすぐだった。
ふと顔を上げると、私の左前に一人のおじいさんが立っていた。
手すりにつかまりながら、少しつらそうな表情をしている。
その瞬間、私はすぐに立ち上がった。
「どうぞ」
そう声をかけようと思った。
ところが――
私が席を立った瞬間、右前にいた制服姿の女子高生が動いた。
「あ……」
一瞬で分かった。
この子、座ろうとしている。
でも、私が立った理由は自分が座るためじゃない。
私は一歩横に移動した。
女子高生が座席へ向かおうとする。
私はまた少し移動した。
まるで無言の押し合いのようになった。
女子高生は私の横をすり抜けようとする。
でも、その先には座席ではなく、おじいさんに座ってほしいという私の意思があった。
数秒後。
おじいさんが空いた席に座った。
すると女子高生は、その光景を見て表情を変えた。
唇を噛みしめる。
そして、こちらをじっと睨んできた。
私は正直、驚いた。
「え……?」
普通なら、
「あ、この人は自分が座るためじゃなくて、お年寄りに譲ったんだ」
と分かる場面だと思ったからだ。
でも彼女は違った。
そこで私は、あえて落ち着いた声で聞いた。
「どうして睨んでるの?」
女子高生は黙っている。
私は続けた。
「もしかして具合悪かったの?」
「ご年配の方より先に座らないといけないくらい体調が悪かったなら、他の方に席を譲ってもらえるか聞いてあげようか?」
責めるような言い方ではなく、淡々と聞いたつもりだった。
すると女子高生の顔が一気に赤くなった。
何も言わず、人をかき分けるようにして車両の奥へ移動していった。
もちろん、本当に体調が悪かった可能性まで否定するつもりはない。
電車の中には、見た目では分からない事情を抱えている人もいる。
でも、もし本当に具合が悪かったなら、
「すみません、体調が悪いので座ってもいいですか」
と一言伝えることもできたはずだ。
周囲の人間は超能力者ではない。
誰が本当に苦しいのか、言われなければ分からない。
まして今回の場合、私は席を奪おうとしていたわけではない。
目の前に立っていたおじいさんへ譲ろうとしていた。
そのおじいさんが座った時点で、状況は明らかだったと思う。
それでも睨みつけるという行動を取ったことに、私は驚いた。
席に座れなかったことよりも、
「自分が優先されるはずだった」
という態度の方が気になった。
優先席かどうか以前に、電車の中はお互いに少しずつ気を遣う場所だと思う。
困っている人がいたら助ける。
でも、助けてほしい時は言葉で伝える。
それだけのことではないだろうか。
あの日、席に座ったおじいさんが小さく頭を下げてくれた。
その姿を見て、私は間違っていなかったと思った。