あの日の腹痛は、今までと違った。
立とうとすると視界が白くなり、呼吸すら乱れる。
私はソファの端で崩れながら、娘の手だけを握っていた。
「ママ、大丈夫?」
その声に、うまく笑えなかった。
娘はすぐに異変を察し、電話に飛びついた。
「パパ!ママがお腹痛いの!」
スピーカー越しの声は、軽かった。
『飲んでるから適当にしてw』
「適当ってなに!?ママ苦しそうだよ!」
『寝てりゃ治るって。じゃ』
――切れた。
その瞬間。
娘は、泣かなかった。
代わりに私を見て、小さく言った。
「ママ、待ってて」
そして――
一人で外に飛び出した
私は止められなかった。
数分後。
玄関のチャイム。
近所の人が娘を抱えて立っていた。
「大丈夫ですか!?娘さんが助けてって…!」
そのまま救急車が呼ばれ、私は搬送された。
診断は――急性腹症。
あと少し遅れていたら危険だった
医師の言葉で、背筋が冷えた。
そして同時に、確信した。
娘がいなければ、私は助かっていない
――翌朝。
夫から電話が来た。
「腹痛、治った?」
いつも通りの、他人みたいな声。
私は静かに言った。
「治ってない」
少し間を置いて、続けた。
「でもね、助かったよ」
「は?」
「娘が助けてくれたから」
沈黙。
私は一つずつ事実を並べた。
「あなたに電話したあと、一人で外に出て、助けを呼んだの」
夫の呼吸が止まる。
「もしあの時、娘が動かなかったら――」
「私は今、ここにいない」
電話の向こうで、音が崩れた。
「俺は…そんなつもりじゃ…」
私は遮った。
「“そんなつもり”じゃなくても、結果は変わらない」
沈黙。
私はさらに言った。
「娘はね、“パパは来ない”って分かって動いたの」
その一言で、完全に空気が止まった。
夫の声が震える。
「違う…俺は…」
「違わない」
私ははっきり言った。
「あなたは、助けを求めた子どもを切った」
数秒の沈黙。
そして、私は最後に言った。
「もう決めたから」
「え?」
「離婚する」
夫が息を呑む。
「待てよ、俺…」
「遅い」
私は淡々と続けた。
「娘は、あなたがいなくても動けるって証明した」
「じゃあもう、必要ないよね」
その瞬間、夫の声が崩れた。
「やり直させてくれ…」
「やり直すのは、私と娘の人生」
私は電話を切った。
病室は静かだった。
隣の椅子には、娘が描いた絵。
真ん中に私。
その隣に娘。
父親は――
端に、小さく描かれていた。
私はその絵を見て、静かに思った。
この距離が、もう答えだ
数ヶ月後。
離婚は成立。
養育費と面会は、すべて書面で管理。
夫は何度も連絡してきたが、
一切、感情では対応しなかった
そして娘は今も言う。
「ママ、あの時ね、怖かったけど頑張った」
私は笑って答える。
「うん。ママを助けてくれたね」
あの日、変わったのは状況じゃない。
“誰に頼るか”だった
そして私は、もう間違えない。