新幹線で指定席を取った。
その時点で、私は少し安心していた。
座れる。
荷物も落ち着いて置ける。
移動のあいだくらい、静かに過ごせる。
そう思っていた。
甘かった。
車内に入った瞬間、私は自分の席の前で足を止めた。
一瞬、見間違いかと思った。
でも見間違いじゃなかった。
でかいピンクのキャリーケースが、どんと横たわっていた。
しかも寝かせたまま。
通路側でもない。
荷物置き場でもない。
“私の足元”に、当然みたいな顔で堂々と寝転がっている。
その上にはバッグまで乗っていた。
安定感すらある。
いや、感心してる場合じゃない。
私は数秒その場で固まった。
ここ、私の指定席なんだけど。
ちゃんとお金払って取った席なんだけど。
なのに、足元にはすでに他人の荷物が“入居済み”。
意味がわからない。
私は静かに席へ座った。
座ったというより、無理やり体をねじ込んだ。
膝の角度がおかしい。
自然に座るという行為が、ここまで難易度高いとは思わなかった。
目の前にはピンクのキャリーケース。
つやつやしている。
傷も少ない。
たぶん持ち主は大事に使っているんだろう。
いや、知らん。
まず立てろ。
心の中で何度もそう叫んだ。
でも私は表情だけは平静を装った。
公共交通機関だから。
大人だから。
いきなりキレるのも違う。
違うんだけど、内心はかなり荒れていた。
だって普通にしんどい。
こっちは指定席を取っている。
“最低限くつろげる空間”にお金を払っている。
なのに、その空間の一番大事な足元を最初から奪われている。
これ、地味にキツいどころじゃない。
普通にキツい。
しかも、なんで横に寝かせる必要ある?
キャリーケースって立つでしょう。
車輪もついてるでしょう。
そのための形でしょう。
なのに、なぜ横たえる。
なぜ人の足元スペースを占領する。
私はちらっと持ち主を見た。
悪びれる様子、ゼロ。
完全に“いつものこと”みたいな顔でスマホを見ている。
その自然さがまた腹立つ。
ああ、この人の中ではこれ普通なんだなって思った。
他人のスペースを侵食しても、何とも思わない。
ある意味すごい。
自意識の省エネ性能が高すぎる。
私は少し足を動かした。
当然ぶつかる。
逃げ場がない。
膝もつま先も、全部キャリーケースの支配下。
なんだこれ。
私は今、新幹線に乗っているのか。
それとも巨大スーツケースの添い寝係か。
しかも、こういう時に限って妙にトイレに行きたくなる。
人間って、制限されると急に自由を欲しがる。
普段なら気にもしない足元の空間が、急にものすごく尊く感じる。
私は何度も心の中で呟いた。
せめて立てろや。
本当にそれだけでいい。
全部どかせとは言わない。
消えろとも言わない。
ただ縦にしてくれ。
そうすれば、人間が人間らしく座れる程度の余白は戻ってくる。
なのに、その最低限すらない。
この“微妙に文句を言いづらい迷惑”って本当に厄介だ。
完全なルール違反ではない顔をしながら、確実に人を不快にしてくる。
絶妙にズルい。
そしてやられた側だけが、じわじわストレスを溜める。
私は何度も考えた。
「すみません、荷物立ててもらえますか?」
そう言えば終わる話かもしれない。
でも、公共の場で最初に空気を動かすのって妙に気力がいる。
しかも相手が“悪いと思ってない人”だと、その一言は想像以上に疲れる。
こっちは悪くないのに。
なんでこちらがメンタルを消費しなきゃいけないのか。
その理不尽が、さらに腹立たしかった。
そしてついに、私は顔を上げた。
周りの乗客が少しこちらを見る。
でももう知らない。
私は少し大きめの声で言った。
「すみません!!」
空気が止まる。
そして私は、目の前の荷物を指差した。
「この荷物、14Bの方のですか?」
車内、静まり返る。
数秒後。
少し離れた席の男が、ゆっくり顔を上げた。
「あ……」
完全に“自分のだ”って顔だった。
その瞬間、周囲の視線が一気に男へ集まった。
新聞を読んでいたおじさんまでチラッと見る。
男は急に気まずそうな顔になった。
そして無言で立ち上がり、スーツケースを縦にした。
……最初からそうしろ。
本当にそれだけ。
全部どかせなんて言わない。
ただ、人の足元を“荷物置き場扱い”しないでほしい。
指定席って、座席番号だけじゃないと思う。
足元も。
空間も。
“普通に座れる権利”も含めて、お金を払っている。
なのに、その小さな快適さを平気で踏み越えてくる人がいる。
しかも本人は、大体悪気がない。
だから余計に厄介だ。
私は窓の外を見ながら思った。
こういう時って、
“最初に声を出した側”が空気を壊したみたいになる。
でも違う。
最初に人のスペースを壊したのは、そっちだろ。
本当に、それだけの話なんですよ。