その日、私は少しだけ早めにホテルへ着いた。
出張だった。
朝から移動続きで、体は重い。
とにかく早く部屋に入って、シャワーを浴びて、ベッドに倒れ込みたかった。
ロビーは綺麗だった。
静かなBGM。
観葉植物。
落ち着いた照明。
何度か泊まったことのあるビジネスホテル。
いつも通り、フロントで名前を伝える。
スタッフはパソコンを確認し、軽く頷いた。
その瞬間だった。
「あの…申し訳ありません」
その言い方で、ちょっと嫌な予感がした。
「本日はシングルルームでご予約いただいておりますが…」
うん、知ってる。
いつも出張ではシングルを取っている。
「ホテルの都合により、シングル以外のお部屋になります」
……え?
私は一瞬だけ固まった。
でもすぐに、
まぁいいかと思った。
ツインとか、ダブルとか。
もしかしたら少し広い部屋なのかもしれない。
しかもスタッフは続けた。
「料金は変わりませんので」
それなら別に問題ない。
むしろちょっと得かもしれない。
私は軽く頷いた。
「大丈夫です」
カードキーを受け取り、エレベーターへ向かう。
静かな廊下。
足音を吸い込むカーペット。
部屋番号は307。
カードキーをかざす。
ピッ。
ドアが開いた。
そして私は——
一歩、止まった。
……ん?
いや。
え?
ちょっと待って。
頭が一瞬フリーズした。
そこにあったのは、ベッドじゃなかった。
畳だった。
しかも想像以上に“ガチの和室”。
広い。
いや、広すぎる。
部屋の真ん中には大きな座卓。
壁には掛け軸。
隅には立派な床の間。
そして端には——
綺麗に積まれた布団。
私は入口でしばらく立ち尽くした。
さっきのフロントの言葉が、ゆっくり脳内で再生される。
「シングル以外のお部屋になります」
……。
確かに。
嘘は言ってない。
でも、そっち!?
私は改めて部屋を見回した。
広すぎる和室。
座布団が四枚。
完全に旅館。
しかも、一人。
誰もいない。
いや、この部屋、絶対ファミリー用だろ。
私はスーツケースを部屋の隅に置いた。
すると、やけに小さく見える。
十畳以上ある。
たぶん。
静かな畳の匂いが広がっていた。
その空間に一人で立っていると、
だんだん可笑しくなってきた。
「いや、これ…」
思わず笑ってしまった。
シングル予約した出張サラリーマン。
なぜか旅館みたいな和室に通される。
しかもベッドなし。
完全に修学旅行スタイル。
私は布団の山を見つめた。
これ、自分で敷くのか。
社会人になってから、ホテルで布団を敷いたことなんてない。
でもまぁ、ちょっと面白い。
私はスマホを取り出して写真を撮った。
畳。
座卓。
掛け軸。
布団。
全部ちゃんと旅館。
そして友達に送った。
「見てこれ」
すぐ返信が来た。
「え、旅館?」
「合宿?」
「修学旅行?」
違う。
出張。
私は返信した。
「シングル予約した結果これ」
即レス。
「なんでwww」
ほんとそれ。
でも、考えてみればホテル側は何も間違っていない。
ちゃんと説明していた。
「シングル以外のお部屋になります」
ただ——
私が勝手に“洋室”を想像していただけ。
その夜。
私は広すぎる和室で、一人布団を敷いた。
静かな畳の部屋。
天井も高い。
電気を消ぶ前、もう一度思った。
もし同僚がこの部屋を見たら、絶対こう言う。
「なんで出張で旅館泊まってんの?」
その時、私はこう答えるだろう。
「いや、シングル予約したんだけどさ」
「ホテルの“都合”でこうなった」
そして最後に、一番ジワる一言を付け加える。
「料金は変わりませんので、って」