結婚してから五年。私は毎日、「母親」という役割をこなすだけで精一杯だった。
その夜、突然お腹に激しい痛みが走った。胃の奥がねじれるように痛み、立ち上がろうとすると視界が白く滲む。私はソファにもたれ込み、五歳の娘の手を必死に握っていた。
「ママ、お腹痛いの?」
娘は泣きそうな顔で私を見上げた。私は笑おうとしたが、うまく笑えなかった。
異変を察した娘は、慌ててリビングの電話へ向かった。小さな指で何度も番号を押し直し、ようやく夫につながる。
「パパ! ママがお腹痛いって! 助けて!」
だが、スピーカー越しに聞こえた夫の声は酔っていた。
『飲んでるから適当にしてw 救急車とか大げさだろ』
娘は固まり、次の瞬間、声を震わせた。
「適当ってなに!? ママ、泣きそうだよ!」
『寝てりゃ治るって。じゃ』
電話は切れた。
娘は受話器を握ったまま動かなくなり、それから私の胸に飛び込んできた。
「ママ……パパ、来ないの?」
私は「大丈夫」と言いかけた。
けれど、本当は大丈夫ではなかった。
「お水……持ってきてくれる?」
娘は何度も頷き、台所へ走った。コップの水をこぼしながら戻ってくる姿を見て、胸が締めつけられた。
そこから先の記憶は曖昧だった。玄関のチャイム。娘の「ママが……」という声。そして、私は意識を失った。
翌朝。
病室で目を覚ますと、携帯が震えていた。画面には夫の名前。
私は通話に出た。
「腹痛、治ったか?」
私はしばらく黙り込み、それから乾いた声で答えた。
「……治ってない」
「は? まだ痛いの?」
私は白い天井を見つめたまま言った。
「娘は、亡くなりました」
電話の向こうが静まり返る。
「……え?」
私は感情を押し殺しながら続けた。
「あなたが“適当にして”と言った夜、娘は一人で助けを呼びに外へ出たんです」
夫が息を呑む。
「嘘だろ……五歳だぞ……」
「五歳でした。だからこそ、あなたの言葉は致命的だったんです」
夫は震える声で言った。
「俺は……飲んでただけで……」
「その“だけ”で、娘は死んだんです」
私は静かに続けた。
「娘は最後まで、あなたに助けを求めていました。“パパ、ママを助けて”って」
電話の向こうから嗚咽が漏れる。けれど、私は慰めなかった。
「葬儀の手配は終えています。来ても構いません。でも、娘の前で言い訳だけはしないでください」
「待ってくれ、俺が悪かった……!」
私は小さく息を吐いた。
「遅いの」
そう言って、電話を切った。
病室のベッド脇には、娘が描いた家族の絵が置かれていた。真ん中に私と娘。そして端に、小さく描かれた夫。
その距離が、すべてだった。