「それ、私の券じゃないですか」
そこまで言いかけて、喉で止まった。
山岡家でラーメンを注文して、席に座ったあと、私は前回もらったサービス券をテーブルの端に置いた。
なくさないように、わざわざ見える場所に置いた。
ラーメンが来るまで少し時間がありそうだったから、席を外した。
戻ってきた時、最初は違和感だけだった。
コップの位置も、スマホを置いた場所も変わっていない。
カウンターの上も荒れていない。
でも、テーブルの端だけが妙に空いていた。
さっき置いたサービス券がない。
ポケットを探した。
財布も開いた。
椅子の下も見た。
ない。
その時、隣の客が一瞬だけこっちを見た。
本当に一瞬だった。
すぐにスマホへ目を落として、何もなかったみたいな顔をしている。
私より後に入ってきたのは、その人だけ。
言おうと思えば言えた。
「すみません、ここに置いてあった券、見ませんでしたか」
でも、店内でそんなことを言い出したら、空気が変になる。
券一枚で揉めている人みたいになる。
そう思って、私は黙った。
ただ、ラーメンの味はほとんど入ってこなかった。
腹が立っているというより、気持ち悪かった。
人の席に置いてあるものを、何も言わずに持っていく。
その小ささが、ずっと喉の奥に引っかかっていた。
食べ終わって席を立った時、隣の客もほぼ同じタイミングで立った。
私は何となく、その人の手元を見てしまった。
すると、カウンターの方で店員さんに何かを差し出していた。
小さく折れたサービス券だった。
私の券は、端を少しだけ折る癖がある。
財布に入れる時に曲がるから、いつも同じところに折り目がつく。
その折り目が見えた瞬間、頭の中がすっと冷えた。
やっぱりか。
私は一歩だけ前に出た。
「それ、私の席にあったものですよね」
今度こそ言おうとした。
でも、その瞬間、店のガラス越しに外の自転車が見えた。
荷物を積んだ自転車に、年配の男性がまたがっていた。
こちらを見ている。
目が合うと、慌てたように頭を下げた。
私は一度、隣の客を見る。
相手は何も気づいていないふりで、券を出したまま店員さんと話している。
ここで言えば、たぶん相手は言い訳する。
落ちていたとか、知らなかったとか。
店員さんを巻き込んで、嫌な空気になる。
私は奥歯を噛んで、そのまま店を出た。
外に出ると、自転車の男性が少し迷ったように近づいてきた。
「あの、すみません」
声が小さかった。
「今、ちょっと食べるものがなくて……100円でもいいんです。お願いできますか」
言い方がたどたどしい。
でも、頭は何度も下げていた。
私はまだ店の中のことを引きずっていた。
さっきの客は、何も言わずに人の券を持っていった。
目の前の人は、100円を頼むのにも、こんなに何度も頭を下げている。
この差は何なんだろうと思った。
ポケットに手を入れると、折りたたんだ1000円札が入っていた。
一瞬、迷った。
でもすぐに、その1000円札を渡した。
「これで、何か温かいもの食べてください」
男性は受け取ったまま固まった。
「え、いいんですか」
「大丈夫です」
「返さなくていいんですか」
「返さなくていいです」
そう言っても、まだ信じられないみたいな顔をしていた。
「本当に、返さなくていいんですか」
三回目に聞かれた時、私は思わず笑ってしまった。
さっき店内で見た人と、あまりにも違いすぎたから。
黙って取る人がいる。
渡されても、返さなくていいのか何度も確認する人がいる。
同じ小さなお金の話なのに、ここまで人が出るのかと思った。
その時、店のドアが開いた。
さっきの隣の客が出てきた。
手にはスマホ。
こちらを見ないようにしているのに、男性の声だけは聞こえていたと思う。
「ありがとうございます。本当に助かります」
男性は、私に向かって何度も頭を下げた。
隣の客は、その横を通り過ぎようとして、少しだけ足を止めた。
私は何も言わなかった。
責める言葉も出さなかった。
ただ、男性に向かって言った。
「ちゃんと食べてくださいね」
男性は自転車を押しながら、店の方を見た。
「じゃあ、ここで食べてもいいですか」
その言葉で、私は完全に力が抜けた。
いいに決まっている。
むしろ、そのために渡した。
男性は店の入口の前で、もう一度深く頭を下げてから中に入っていった。
その背中を見ていたら、さっきまでのモヤモヤが急に薄くなった。
サービス券は戻ってこない。
隣の客が何を思ったのかも分からない。
でも、あの日はっきり分かったことがある。
得をした顔で小さな券を持っていく人より、1000円を受け取って何度も確認する人の方が、ずっとまっすぐだった。
店を出た時は、嫌な気分しかなかった。
でも最後に残ったのは、不思議とすっきりした気持ちだった。
券一枚で人の小ささを見て、1000円で人の丁寧さを見た。
あの1000円は、たぶん今までで一番気持ちよく使った1000円だった。