山岡家で私のサービス券を会計に出した隣客。声をかけようとした瞬間、店の外の男性がこっちを見ていた
2026/04/29

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「それ、私の券じゃないですか」

そこまで言いかけて、喉で止まった。

山岡家でラーメンを注文して、席に座ったあと、私は前回もらったサービス券をテーブルの端に置いた。

なくさないように、わざわざ見える場所に置いた。

ラーメンが来るまで少し時間がありそうだったから、席を外した。

戻ってきた時、最初は違和感だけだった。

コップの位置も、スマホを置いた場所も変わっていない。
カウンターの上も荒れていない。

でも、テーブルの端だけが妙に空いていた。

さっき置いたサービス券がない。

ポケットを探した。
財布も開いた。
椅子の下も見た。

ない。

その時、隣の客が一瞬だけこっちを見た。

本当に一瞬だった。

すぐにスマホへ目を落として、何もなかったみたいな顔をしている。

私より後に入ってきたのは、その人だけ。

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言おうと思えば言えた。

「すみません、ここに置いてあった券、見ませんでしたか」

でも、店内でそんなことを言い出したら、空気が変になる。

券一枚で揉めている人みたいになる。

そう思って、私は黙った。

ただ、ラーメンの味はほとんど入ってこなかった。

腹が立っているというより、気持ち悪かった。

人の席に置いてあるものを、何も言わずに持っていく。

その小ささが、ずっと喉の奥に引っかかっていた。

食べ終わって席を立った時、隣の客もほぼ同じタイミングで立った。

私は何となく、その人の手元を見てしまった。

すると、カウンターの方で店員さんに何かを差し出していた。

小さく折れたサービス券だった。

私の券は、端を少しだけ折る癖がある。

財布に入れる時に曲がるから、いつも同じところに折り目がつく。

その折り目が見えた瞬間、頭の中がすっと冷えた。

やっぱりか。

私は一歩だけ前に出た。

「それ、私の席にあったものですよね」

今度こそ言おうとした。

でも、その瞬間、店のガラス越しに外の自転車が見えた。

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荷物を積んだ自転車に、年配の男性がまたがっていた。

こちらを見ている。

目が合うと、慌てたように頭を下げた。

私は一度、隣の客を見る。

相手は何も気づいていないふりで、券を出したまま店員さんと話している。

ここで言えば、たぶん相手は言い訳する。

落ちていたとか、知らなかったとか。

店員さんを巻き込んで、嫌な空気になる。

私は奥歯を噛んで、そのまま店を出た。

外に出ると、自転車の男性が少し迷ったように近づいてきた。

「あの、すみません」

声が小さかった。

「今、ちょっと食べるものがなくて……100円でもいいんです。お願いできますか」

言い方がたどたどしい。

でも、頭は何度も下げていた。

私はまだ店の中のことを引きずっていた。

さっきの客は、何も言わずに人の券を持っていった。

目の前の人は、100円を頼むのにも、こんなに何度も頭を下げている。

この差は何なんだろうと思った。

ポケットに手を入れると、折りたたんだ1000円札が入っていた。

一瞬、迷った。

でもすぐに、その1000円札を渡した。

「これで、何か温かいもの食べてください」

男性は受け取ったまま固まった。

「え、いいんですか」

「大丈夫です」

「返さなくていいんですか」

「返さなくていいです」

そう言っても、まだ信じられないみたいな顔をしていた。

「本当に、返さなくていいんですか」

三回目に聞かれた時、私は思わず笑ってしまった。

さっき店内で見た人と、あまりにも違いすぎたから。

黙って取る人がいる。

渡されても、返さなくていいのか何度も確認する人がいる。

同じ小さなお金の話なのに、ここまで人が出るのかと思った。

その時、店のドアが開いた。

さっきの隣の客が出てきた。

手にはスマホ。

こちらを見ないようにしているのに、男性の声だけは聞こえていたと思う。

「ありがとうございます。本当に助かります」

男性は、私に向かって何度も頭を下げた。

隣の客は、その横を通り過ぎようとして、少しだけ足を止めた。

私は何も言わなかった。

責める言葉も出さなかった。

ただ、男性に向かって言った。

「ちゃんと食べてくださいね」

男性は自転車を押しながら、店の方を見た。

「じゃあ、ここで食べてもいいですか」

その言葉で、私は完全に力が抜けた。

いいに決まっている。

むしろ、そのために渡した。

男性は店の入口の前で、もう一度深く頭を下げてから中に入っていった。

その背中を見ていたら、さっきまでのモヤモヤが急に薄くなった。

サービス券は戻ってこない。

隣の客が何を思ったのかも分からない。

でも、あの日はっきり分かったことがある。

得をした顔で小さな券を持っていく人より、1000円を受け取って何度も確認する人の方が、ずっとまっすぐだった。

店を出た時は、嫌な気分しかなかった。

でも最後に残ったのは、不思議とすっきりした気持ちだった。

券一枚で人の小ささを見て、1000円で人の丁寧さを見た。

あの1000円は、たぶん今までで一番気持ちよく使った1000円だった。

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