出産して、まだ一ヶ月も経っていなかった。
体は痛い。
眠れない。
赤ちゃんは夜中も何度も泣く。
それでも私は幸せだった。
小さな手。
柔らかい頬。
私を探すように握ってくる指。
この子のそばに、
しばらくはずっといたい。
そう思っていた。
だから仕事も辞めた。
育休が取れない会社だったし、
夫とも何度も話し合った。
三年くらいは、
夫の収入と貯金で何とかやっていこう。
子どもが幼稚園に入る頃に、
私もまた働けばいい。
そう決めていた。
そのための貯金だった。
私が独身時代から必死に貯めたお金。
夫と一緒に積み上げたお金。
家族三人で生きるための、
大切な七百万円だった。
それが、
消えた。
夫が言った。
「親戚に貸した」
最初、
意味が分からなかった。
「すぐ返すって言ってたんだ」
「昔から世話になった人だから」
「断れなかった」
私は赤ちゃんを抱いたまま、
ただ夫の顔を見ていた。
そして次の言葉で、
完全に崩れた。
「でも、その人……失踪した」
視界が揺れた。
七百万円。
ほぼ全財産。
そのうち四百万円は、
私のお金だった。
私に一言もなく。
相談もなく。
産後で動けない私に黙って。
夫は、
家族の未来を勝手に渡していた。
涙が止まらなかった。
「どうするの……」
「この子、まだこんなに小さいのに」
「私、すぐ働かなきゃいけないの?」
赤ちゃんの寝顔を見た瞬間、
胸が潰れそうになった。
本当は、
そばにいたかった。
初めて笑う瞬間も。
寝返りする瞬間も。
泣きながら私を探す夜も。
全部、
そばで受け止めたかった。
なのに。
私が泣きながら言った。
「こんな親で申し訳ない」
「子どもが可哀想……」
次の瞬間だった。
顔に衝撃が走った。
星が散ったみたいに、
視界が白く弾けた。
何が起きたのか、
すぐには分からなかった。
床に、
ぽたぽたと赤い液体が落ちていた。
私の血だった。
夫が怒鳴っていた。
「保育園に預けることの何が悪いんだ!」
「働いてる母親なんて山ほどいるだろ!」
「そんなに働きたくないのか!」
違う。
私はそんなこと、
一言も言っていない。
保育園が悪いなんて言っていない。
働きたくないわけでもない。
ただ、
この子と一緒にいたかっただけ。
でも、
その言葉は出なかった。
また殴られると思ったから。
鏡を見たら、
目の周りは真っ黒に腫れていた。
唇は切れて、
顔は別人みたいだった。
その後、
夫は土下座した。
「気が動転してた」
「俺も悪気があったわけじゃない」
「責められて、ついカッとなった」
私は離婚しようと思った。
でも、
貯金はない。
赤ちゃんはいる。
夫は絶対に離婚しないと言う。
私は諦めた。
いや、
その時は諦めたふりをした。
心の奥で決めた。
いつか、
この人が一番困る時に捨ててやる。
そのために私は働いた。
子どもを保育園に預けた。
毎朝、
泣きながらしがみつく子を引き剥がして、
仕事へ向かった。
胸が裂けそうだった。
でも、
経済的に自立するしかなかった。
三年が経った。
夫は一度も暴力を振るわなかった。
家事もする。
子どもとも遊ぶ。
収入も上がった。
周りから見れば、
良い夫で良い父親だった。
私も、
あの一回だけだったのかもしれないと思いかけていた。
忘れた方がいいのかもしれない。
このまま家族を続ける方がいいのかもしれない。
そう思っていた。
でもある夜、
夫が笑いながら言った。
「うちは喧嘩しないよな。あ、一回だけあったじゃん」
そして続けた。
「嫁ちゃんが顔面パンダになった時。あの顔すごかったよね」
その瞬間、
私の中で何かが切れた。
喧嘩?
あれが?
あれは喧嘩じゃない。
暴力だ。
私はあの日から、
怖くて本音を言えなくなっただけ。
夫が優しくなったから、
家が平和だったんじゃない。
私が黙っていたから、
波風が立たなかっただけ。
夫は何も分かっていなかった。
反省なんてしていなかった。
私がどれだけ泣いたか。
子どもが保育園の前で吐くほど泣いたこと。
爪を噛んで血を出したこと。
私が夜中に何度も死にたくなったこと。
全部、
夫にとっては笑い話だった。
その夜、
私は眠れなかった。
隣で眠る夫を見ながら、
静かに思った。
もう二度と、
この人を許さない。
今すぐ捨てることはしない。
子どものために、
私自身のために、
もっと準備する。
お金を貯める。
仕事を固める。
証拠も記録も残す。
そしていつか、
夫が「これから二人でゆっくり暮らそう」と夢を語る頃。
私は笑って言う。
「あなたと老後を過ごすつもりなんて、一度もなかった」
あの日、
床に落ちた血を、
私は一生忘れない。
家族を壊したのは私じゃない。
私の未来を奪って、
それを笑い話にしたあなたなんだ。