玄関の鍵を開けた瞬間だった。家の奥から、女の荒い息と、低い男の笑い声が聞こえた。
嫌な予感が胸を走る。
私は黙って靴を脱ぎ、電気も点けずにリビングへ向かった。扉の隙間から見えたのは、乱れた服の妻・由美と、刺青の入った男だった。
さらに奥のソファには、同じ空気を纏った男たちが数人座っている。どう見ても堅気ではない。
男は私に気づくと、ニヤつきながら言った。
「おっさん邪魔。コーヒー買ってこいよ」
由美は私を見た。だが助けを求める目ではなかった。
私は静かに答えた。
「了解です」
怒鳴りもしない。殴りかかりもしない。
私はそのまま家を出た。
コンビニへ向かいながら、私はスマホを取り出す。
《家に客。至急》
短く送信し、コーヒーを買って家へ戻った。
男――黒田が勝ち誇った顔でコーヒーへ手を伸ばした、その時だった。
ソファの幹部格の男が、私の顔を見て凍りついた。
「……待て、おい黒田……」
黒田が振り返る。
「何だよ、こんなおっさん――」
だが言葉が止まった。
私の薬指に残る古い傷。胸元から覗く小さな徽章。
それを見た瞬間、男たちの顔色が変わった。
「……神崎さん……?」
誰かが震える声で呟く。
私は静かにコーヒーを置き、スマホを机へ置いた。
画面には通話中の表示。
『神崎、到着まで三分』
その声を聞いた瞬間、幹部の一人が膝から崩れ落ちた。黒田の顔も青ざめる。
私は由美へ視線を向けた。
「由美。この家は家族を守るための場所だ」
由美の唇が震える。
「あなたは、そこへ一番危険な連中を入れた」
やがて玄関が開き、黒服の男たちが無言で入ってきた。誰一人抵抗しない。
私は黒田へ最後に告げる。
「コーヒー、熱いので気をつけて。――二度とここへ来るな」
嵐のような時間だった。だが終わりは、驚くほど静かだった。
部屋に残ったのは、裏切りの匂いと沈黙だけ。
私は玄関の鍵を閉める。
もうこの家の扉が、“夫婦の部屋”として開くことはなかった。