一九六二年の冬、愛知大学山岳部の十三名は、北アルプス・薬師岳を目指す年越し登山に挑んだ。折立にベースキャンプを置き、太郎平小屋、薬師平へと進み、複数のキャンプを設けながら山頂を狙う「局地法」で進める計画だった。
しかし、この計画は出発前から不安を抱えていた。本来は二十名で臨むはずが、就職の都合などで上級生が減り、実際のメンバーは四年生二名、二年生五名、一年生六名。経験の浅い一、二年生が中心となり、リーダー役も二年生三名の合議で決められた。
入山後、序盤は順調だった。折立から進み、第一キャンプ、太郎平小屋へと到着する。だが十二月三十日から天候は急変した。強風と雪で視界は奪われ、十三名は停滞を余儀なくされる。さらに年明けの一月一日も大雪は続き、彼らは太郎平小屋で足止めされた。
ようやく吹雪が弱まった一月二日、彼らは薬師平付近に第三キャンプを設営する。そこへ日本歯科大学のパーティーが追い抜いていった。
その姿を見た愛知大学の一部メンバーは焦りを覚え、「せっかくだから全員で山頂を目指そう」と計画を変更してしまう。本来なら支援役は戻るはずだったが、彼らは軽装のまま全員で登頂を始めた。
やがて猛吹雪が再び襲い、視界はほとんど失われた。引き返す判断はしたものの、彼らは進路を誤り、第三キャンプとは別方向の東南尾根へ迷い込んでしまう。しかも地形図やコンパスは小屋に残されたままだったとされる。雪山で道を失った十三名は、食料も装備も不十分なまま、極寒の尾根で力尽きていった。
捜索は三八豪雪の影響で難航し、遺体の発見は三月以降までずれ込んだ。数名は抱き合うような状態で見つかり、最後まで体温を守ろうとした痕跡が残されていた。
楽しい年越し登山になるはずだった計画は、判断ミス、装備不足、天候悪化、計画変更が重なり、十三名全員が命を落とす悲劇となった。冬山では、わずかな油断が帰らぬ道につながる。リーダーに任せきりにせず、一人ひとりが危険を見極める力を持つこと。
それこそが、山から無事に帰るための最低条件なのである。