彼が転職して半年ほど経った頃だった。以前は毎日終電のようなブラック企業で働いていたが、新しい会社は違った。有給も取りやすく、同僚も優しく、飲み会まで楽しい。夫は「やっとまともな会社に入れた」と浮かれていた。
その頃から、妻の体調は少しずつ悪くなっていた。もともと持病があり、時々発作のような症状も出ていたが、命に関わるものではなかった。ただ、妻は昔から我慢強く、多少の不調では病院へ行かない性格だった。
ある日の夜。帰宅した夫は、ソファにもたれる妻の顔色を見て驚いた。妻は額に濡れタオルを当て、苦しそうに息をしていた。熱を測ると39度。
「ねえ……ポカリだけ買ってきて……」
妻はかすれた声でそう頼んだ。しかし夫はスマホを確認しながら、「明日な」とだけ返した。その日は転職先の歓迎会だった。「せっかく誘われたし、少しくらい大丈夫だろ」そう考え、夫はそのまま飲み会へ向かった。
妻は何も言い返さなかった。ただ、小さくうなずいただけだった。
夫が帰宅したのは深夜十一時過ぎだった。酔ったまま玄関を開け、暗い廊下を進む。その時、階段の下に人影が見えた。
「……え?」
倒れていたのは妻だった。洗濯物が散らばり、妻の手にはタオルが握られていた。駆け寄った夫は、妻の身体に触れた瞬間、凍りつく。もう体は冷たかった。
夫は震える手で救急車を呼んだ。だが、すでに手遅れだった。
後になって夫は知る。妻は高熱と感染症で急激に体調を悪化させていたこと。それでも夫のために洗濯をしようとしていたことを。
夫はネットに懺悔を書くようになった。
「なんで飲み会に行ったんだろう」「有給を取れる会社だったのに」「病院へ連れて行けばよかった」
何度も、何度も同じ言葉を書き続けた。
ネットでは、「これは人殺しと同じだ」「自分しか見えていない男だ」という厳しい声が相次いだ。
一方で、「奥さんももっと早く病院へ行くべきだった」という意見もあった。
それでも、一番後悔しているのは夫本人だった。
妻の最後の願いは、たった一本のポカリだったのだから。