分娩室の前で、私たちはただ待っていた。
長い時間が過ぎ、ようやく聞こえた産声。
その瞬間、胸がいっぱいになった。
生まれた。
無事に。
そう思った。
でも次の瞬間、夫の様子がおかしかった。
「もう行くぞ」
強く腕を掴まれ、私は引きずられるように廊下を出た。
理解が追いつかないまま、外へ。
車に乗り込んだあと、ようやく聞いた。
「どうしたの?」
夫は静かに言った。
「聞こえなかったのか?」
「何が?」
「“助けて”って」
その一言で、空気が変わった。
私はすぐに否定した。
「そんなはずない。赤ちゃんの声でしょ」
でも夫は首を振った。
「違う。俺はドアの近くにいた。看護師の声も聞いた。“呼吸が弱い、準備して”って」
その瞬間、記憶が蘇る。
確かに、慌ただしい声が混じっていた。
でも私は、いい方にしか考えなかった。
夫は続けた。
「周りの空気がおかしかった。誰も“無事です”って言ってなかった」
言われてみれば、そうだった。
喜びの空気の中で、
決定的な一言だけがなかった。
「じゃあ戻るべきじゃないの?」
私が言うと、夫は即答した。
「今戻っても入れない。むしろ邪魔になる」
そして続けた。
「でも、このまま待つだけは危ない」
夫はスマホを取り出した。
「主治医に直接確認する」
数分後、電話が繋がる。
短いやり取りのあと、夫の表情が変わった。
私は聞いた。
「……どうだったの?」
夫はゆっくり言った。
「やっぱり、状態が良くないらしい。今、蘇生処置してる」
頭の中が真っ白になった。
さっきの産声は、
終わりじゃなかった。
むしろ——
始まりだった。
「どうして教えてくれないの……」
思わずこぼれる。
夫は低く答えた。
「パニックになるからだろうな。でも、それで判断が遅れることもある」
その言葉が、現実を突きつけた。
私たちはそのまま、必要な連絡を回した。
娘の夫の家族。
万一に備えて動ける人。
すべて、先回りした。
しばらくして、病院から正式な連絡が来た。
「現在、処置中です」
やはり、何も終わっていなかった。
あの産声は、
“無事の合図”じゃなかった。
私は初めて理解した。
あの瞬間、夫だけが
“現実”を聞いていた。
あの夜、産声は「始まり」だった。