下の階のおばあさんは、異常だった。
本当に、
異常だった。
最初は普通の住人だと思っていた。
引っ越しの挨拶に行った時も、
にこにこしていたから。
「よろしくお願いしますねぇ」
穏やかそうなおばあさんだった。
でも、
それは最初だけだった。
数日後。
夜、
部屋を歩いていた時だった。
突然、
インターホンが鳴った。
しかも連打。
ドンドンドンドン!!
慌ててドアを開けると、
下の階のおばあさんが立っていた。
そして開口一番、
怒鳴られた。
「うるさいのよ!!」
意味が分からなかった。
その時、
私はただ歩いていただけだった。
掃除機もかけていない。
テレビもつけていない。
キッチンへ水を取りに行っただけ。
でもおばあさんは止まらなかった。
「ドンドン響いてるの!」
「もっと静かに歩けないの!?」
そこから、
地獄が始まった。
昼でも苦情。
夜でも苦情。
椅子を引けば苦情。
トイレに立っただけで、
天井を叩き返される。
ある日なんて、
深夜2時にインターホン連打。
「今ジャンプしたでしょ!?」
してない。
寝てた。
正直、
怖かった。
でも最初は、
本当に自分が悪いのかと思った。
だから防音マットを敷いた。
スリッパも柔らかいものに変えた。
ドアの閉め方まで気を遣った。
でも、
意味がなかった。
何をしても来る。
管理会社にも何度も通報された。
そのたびに私は謝った。
でもある日、
別の住人に言われた。
「ああ……あの人ね」
その瞬間、
全部繋がった。
前の住人も、
苦情が原因で出て行ったらしい。
管理会社にも怒鳴る。
隣人にも怒鳴る。
配達員にも怒鳴る。
マンション内では有名な、
クレーマーだった。
その時、
初めて思った。
悪いの、
私じゃない。
でも、
そう分かっても苦しかった。
家なのに落ち着けない。
また苦情が来るかもしれない。
その緊張感で生活する毎日。
正直、
限界だった。
でも私は、
怒鳴り返さなかった。
怒鳴ったら、
同じレベルになる気がしたから。
だから私は、
静かに動いた。
新しいマンションを買った。
幸い、
お金には困っていなかった。
新しい部屋は、
驚くほど静かだった。
夜、
普通に歩ける。
それだけで泣きそうになった。
でも——
前の部屋は、
売らなかった。
そこで私は考えた。
あのおばあさん、
“本当の騒音”を知らないんだって。
だから私は、
元の部屋でフルリフォームを始めた。
もちろん合法。
工事時間も規定内。
でも、
工事って本当に響く。
ガガガガガッ!!
ドンドンドンドン!!
壁を削る音。
床を剥がす音。
毎日続く振動。
しかも私は、
工期を3ヶ月に設定した。
すると案の定、
おばあさんは毎日のように管理会社へ電話したらしい。
でも返ってくる答えは同じ。
「規定内ですので」
「合法ですので」
私はその話を聞きながら、
少し笑ってしまった。
今まで私が、
何度も言われてきた言葉だったから。
「共同住宅ですので」
「生活音ですので」
全部、
自分に返っていった。
しかも今回は、
本当に音が大きい。
管理会社の人も苦笑いしていた。
「かなり参ってるみたいです……」
夜も眠れないらしかった。
でも私は、
何も言わなかった。
全部合法だから。
そして3ヶ月後。
工事が終わった。
静けさが戻った数日後、
久しぶりにインターホンが鳴った。
ドアを開ける。
そこにいたのは、
あのおばあさんだった。
でも、
前とは全然違った。
小さく見えた。
弱っていた。
しばらく黙ったあと、
絞り出すように言った。
「……ごめんなさい」
一瞬、
聞き返しそうになった。
おばあさんは続けた。
「あなた……普通だったのね……」
その瞬間、
なんだか全部どうでもよくなった。
勝ったとかじゃない。
ただ、
一方的に我慢し続けると、
人はどんどん調子に乗るんだと思った。
だから最後は、
合法的に反撃した。
“本当の騒音”がどういうものか。
あのおばあさん自身に、
体験してもらうために。