平日の昼前とはいえ、車内は立っている人が多いほど混雑していた。
私は抱っこ紐の中で眠る赤ちゃんを支えながら、もう一人の子どもの小さな手を握り、ベビーカーを押して乗車した。
本当なら乗りたくなかった。でも病院の予約時間があり、どうしてもこの電車に乗るしかなかった。
すると目の前に立っていた男性が、ため息をつきながら言った。
「ベビーカーは畳んだほうがいいですよ。それがマナーでしょう?」
その言葉をきっかけに、周囲の視線が一斉に私へ向く。
誰も何も言わない。でも、その沈黙が「早く畳んで」という圧力になっていた。
私は謝りながら、片手で赤ちゃんを支え、もう片方でベビーカーを折りたたみ始めた。
荷物は肩からずり落ち、子どもは不安そうに私の服を握っている。
「早く…早く…。」
焦れば焦るほど手は思うように動かなかった。
その瞬間だった。
ガタンッ!!
突然、電車が大きく急ブレーキをかけた。
体が前へ投げ出され、畳みかけていたベビーカーが足に引っかかる。
私は完全にバランスを崩し、とっさに赤ちゃんだけを抱きしめた。
一瞬、本当に「落としてしまう」と思った。
車内は静まり返った。
さっきまでマナーを口にしていた男性も、周囲の乗客も、誰一人として声を出せなかった。
もしベビーカーを畳もうとしていなければ。
もし両手が自由だったなら。
もっと安全に体を支えられたかもしれない。
そんな思いだけが頭をよぎった。
私は恐怖で何も言えず、その場に立ち尽くしていた。
数駅後、電車が駅へ到着すると、車内アナウンスが流れた。
「ベビーカーをご利用のお客様へお知らせします。安全確保のため、混雑時であってもベビーカーを折りたたむことは必須ではありません。状況に応じ、そのままご利用いただけます。」
私は耳を疑った。
続けて、こんな案内が流れた。
「無理な折りたたみのお願いや、安全を損なう行為はお控えくださいますよう、ご協力をお願いいたします。」
その瞬間、車内の空気が変わった。
私を見ていた人たちは次々と目をそらし、最初に注意した男性が、小さく頭を下げた。
「……すみませんでした。」
責める気持ちは、不思議となかった。
きっと彼も、本当にそうするのが正しいと思っていただけなのだ。
でも、その「正しいと思い込んでいたこと」が、あと少しで子どもの命を危険にさらすところだった。
電車を降りた私は、ホームのベンチでしばらく動けなかった。
胸の鼓動はなかなか収まらず、抱っこの赤ちゃんを何度も抱き寄せた。
世の中には、昔から言われ続けてきた「マナー」がたくさんある。
けれど、そのマナーが本当に誰かを守っているのか、一度立ち止まって考えることも大切なのだと思う。
あの日、私が守るべきだったのは周囲の空気ではない。
何よりも優先すべきだったのは、目の前にいる子どもたちの安全だった。
もし次に同じような場面に出会っても、私はもう迷わない。
空気よりも、思い込みよりも、子どもの命を守るという現実を選ぶ。