それは、何気ない夜だった。
仕事から帰宅し、いつものように寝室へ入る。ベッドのシーツを整えようとしたそのとき、白い布の上に一本の毛が落ちているのに気づいた。
最初は気にも留めなかった。だが、拾い上げた瞬間、胸の奥がざわついた。
明らかに、俺のものではない。
色も太さも違う。
そして、嫁は定期的に処理している。長さも質感も一致しない。
(……なんだこれ)
ただの一本。だが、その一本が疑念の種になるには十分だった。
頭の中で最悪の想像が広がる。
俺が仕事で不在の時間は長い。嫁は専業主婦。自由な時間はいくらでもある。
問い詰めるか?
いや、証拠もないのに疑うのは危険だ。もし勘違いなら、関係は壊れる。
俺は冷静を装いながらも、内心では焦燥が渦巻いていた。
そして、決断した。
総額12万円。
小型の監視カメラを三台購入し、リビング、玄関、寝室に設置した。
「家虫だな……」
自嘲しながら、俺は自宅を監視する男になった。
罪悪感はあった。だが、それでも真実を知る方が先だった。
設置翌日。
俺は出勤を装い、近所のカフェにノートパソコンを持ち込んだ。
ライブ映像を開く。
心臓の鼓動がやけに大きい。
――開始から3分。
嫁はいつも通り洗濯物を干している。
4分。
リビングでスマホをいじっている。
何もおかしくない。
だが――
5分。
寝室のカメラに動きがあった。
ドアが、ゆっくり開く。
俺は息を呑んだ。
(来た……)
画面を凝視する。
映像に映ったのは――
見知らぬ男……ではなかった。
巨大な、ふわふわの尻尾。
「……は?」
次の瞬間、ベッドの下から飛び出してきたのは、
近所でよく見かける茶トラの猫だった。
どうやらベランダの隙間から侵入していたらしい。
寝室の窓は換気のために少し開けてあった。
猫は軽やかにベッドに飛び乗り、ゴロゴロと喉を鳴らしながらシーツの上で転がる。
尻尾が揺れる。
毛が舞う。
そして満足したのか、何事もなかったように窓から出ていった。
俺はしばらく画面を見つめたまま動けなかった。
疑念で真っ黒だった頭が、一気に冷水を浴びせられたように冷える。
犯人は――猫。
浮気でも何でもない。
ただの侵入者だった。
その日の夜、俺は何食わぬ顔で嫁に聞いた。
「最近、猫見かけない?」
「見るよ。ベランダに来ることあるみたい。可愛いよね」
無邪気な笑顔だった。
俺は苦笑いするしかなかった。
後日、窓の隙間を完全に塞ぎ、カメラは撤去した。
12万円は痛い出費だった。
だが、夫婦関係を壊さなかったことを思えば――安いのかもしれない。
それにしても。
たった一本の毛で、人はここまで疑えるのか。
もしあのとき、衝動的に問い詰めていたら。
もし怒りに任せて責めていたら。
今の関係は、きっとなかった。
真実は、監視開始5分で明らかになった。
だが本当に怖かったのは――
自分の中にあった“疑う心”の方だった。
今では、その茶トラは半ば公認の訪問者だ。
だが俺は、あの夜の自分を忘れない。
疑いは、証拠よりも先に心を壊す。
そして時に――12万円より高くつく。