私は三十八歳、営業職です。
入社以来ずっと営業成績は一位でした。同期にも先輩にも負けたことはなく、「会社のエース」と呼ばれることが誇りでした。
仕事では誰にも負けない。
そう思って生きてきました。
ところが三十五歳を過ぎた頃、あることだけがどうしても気になり始めます。
同期は次々と結婚し、子どもが生まれ、休日には家族の話で盛り上がっている。
営業成績では私の足元にも及ばない連中なのに、家庭だけは私より先へ進んでいる。
それが悔しくて仕方ありませんでした。
「仕事で勝っているのに、人生では負けている。」
そんな焦りから、私は結婚を決意しました。
とはいえ営業の仕事は忙しく、婚活をする時間などありません。
そんなある日、会社の受付で働く女性、美紗と知り合いました。
落とし物を届けてくれたことがきっかけで少しずつ話すようになり、食事へ行くようになりました。
私は営業で鍛えた話術に自信がありました。
「契約を取れるなら恋愛も同じだ。」
そんな軽い気持ちで積極的にアプローチすると、三か月後には結婚が決まりました。
美紗は私より八歳年下。
私は三十七歳、彼女は二十九歳でした。
私は心のどこかで、
「この年齢なら彼女も結婚を焦っていたはずだ。」
「お互い都合が良かっただけだ。」
そんな失礼なことまで考えていました。
今思えば、その時点で私は結婚相手ではなく、自分の人生を飾るアクセサリーとして彼女を見ていたのだと思います。
結婚後、美紗は会社を辞めて専業主婦になりました。
彼女自身は仕事を続けたかったようですが、私は反対しました。
「男が働き、女は家庭を守る。」
それが当たり前だと思っていたからです。
しかし、一緒に暮らし始めると不満ばかりが目につきました。
料理は普通。
掃除も私から見れば甘い。
シャツを自宅で洗った時は思わず怒鳴りました。
「こういう物はクリーニングに出すのが常識だろ。」
「専業主婦なのに家事くらいちゃんとできないのか。
」
休日になると私が掃除機のかけ方や浴室掃除の仕方まで教え、「こうやるんだ」と説教していました。
それでも私は、自分は正しいと思っていました。
さらに腹が立ったのは、美紗のお金の使い方です。
化粧品。
美容院。
皮膚科。
私には全部無駄遣いにしか見えませんでした。
「百円ショップので十分だろ。」
「何千円もする化粧品なんて意味がない。」
「その金は俺が汗水流して稼いだ金なんだ。」
私はそう言って何度も注意しました。
美紗はいつも、
「ごめんね。」
そう言って笑うだけでした。
私は反省しているのだと思い込み、さらに口を出すようになりました。
ある日、美紗がこんなことを言いました。
「お風呂を使った後は泡を流してね。滑ると危ないから。」
「トイレも座って使ってくれると掃除が助かるな。」
私は一瞬で腹が立ちました。
「俺に指図するのか?」
「専業主婦なんだから、それくらいやるのが仕事だろ。」
私は六人兄弟で育ちました。
父は一家の大黒柱。
父が食卓につくまで誰も箸をつけてはいけませんでした。
母は毎日朝から晩まで家事をしていました。
それが普通の家庭だと信じていた私は、美紗にも同じ役割を求めていたのです。
ある日の夜、とうとう大きな口論になりました。
私はトイレ掃除を見て、
「また手抜きか。」
と不満を口にしました。
すると美紗が静かに言いました。
「あなたも使う場所なんだから、一緒にきれいにしない?」
その一言で私は完全に頭に血が上りました。
「誰の金で生活してると思ってる!」
「専業主婦のくせに偉そうなことを言うな!」
「家事もまともにできない、金ばかり使う、何一つ満足にできないじゃないか!」
営業で鍛えた口は、相手を追い詰めることも得意でした。
私は次々と言葉を浴びせ続けました。
美紗は何も言い返さず、ただうつむき、小さな声で言いました。
「……ごめんなさい。」
「私が悪かった。」
その瞬間、私は勝ったと思いました。
「最初から素直に謝ればいいんだ。」
そう言って話を終わらせたのです。
けれど、その謝罪は私に従ったのではありませんでした。
少しずつ心が壊れていく音を、私はまったく聞こうとしていなかったのです。