ルカは、
私より先に玄関へ走ってくる犬だった。
鍵の音を聞いただけで、
廊下を駆ける足音が響く。
ドアを開ければ、
大きな体で飛びついてきて、
尻尾を振り回しながら私の顔を舐める。
それが、
毎日の当たり前だった。
だからその日も、
無意識に私は待っていた。
玄関の向こうから聞こえる、
あの足音を。
でも、
聞こえなかった。
最初は気にしていなかった。
散歩で疲れて寝ているのかもしれない。
庭にいるのかもしれない。
そう思っていた。
彼女のスープを口にするまでは。
付き合い始めて数ヶ月。
彼女はよく尽くしてくれる人だった。
部屋を片付け、
料理を作り、
「あなたのため」という言葉を何度も使う。
少し重いと思う時もあった。
でも、
愛情深い人なんだと自分に言い聞かせていた。
その夜も、
彼女は嬉しそうだった。
「たくさん煮込んだから、絶対おいしいよ」
私は椅子に座り、
スープをすすった。
肉は柔らかく、
出汁も濃い。
身体の芯から温まる味だった。
「うまい」
そう言うと、
彼女は子どもみたいに笑った。
「よかったぁ」
その笑顔に、
私は少し安心した。
誰かが自分を待っていてくれる。
その感覚が、
久しぶりだったから。
だからこそ、
次の言葉が理解できなかった。
「ねえ」
彼女は静かに言った。
「家の中、静かだと思わない?」
私は顔を上げた。
その瞬間、
胸の奥に違和感が走る。
静かすぎる。
いつもなら、
ルカの鼻息や足音がどこかから聞こえる。
でも今日は、
何もない。
私はスプーンを置いた。
「……ルカは?」
彼女はすぐには答えなかった。
ただ、
口元だけが少し動いた。
私は立ち上がり、
部屋を見回した。
寝室。
廊下。
庭。
どこにもいない。
名前を呼んでも、
返事がない。
急に呼吸が浅くなった。
嫌な予感だけが、
頭の中で膨らんでいく。
「ルカ、どこだ?」
私は思わず声を荒げた。
すると彼女は、
静かに言った。
「今日はもう、迎えに来ないよ」
時間が止まった気がした。
私は彼女を見た。
彼女は、
少し困ったような顔で笑っている。
「どうして気づかなかったの?」
その言葉で、
全身の血が冷えた。
私は震える声で聞いた。
「……何した?」
彼女は目を伏せ、
小さく呟いた。
「だって、
私が迎えたかったから」
意味が分からなかった。
いや、
脳が理解を拒否していた。
彼女は続けた。
「あなた、
いつも犬の方ばっかり見てた」
私は何も言えなかった。
耳鳴りだけが響く。
そして彼女は、
まるで料理の感想を待つみたいな顔で言った。
「だから、
私がちゃんと一つにしてあげたの」
数秒遅れて、
意味が繋がった。
私はテーブルのスープを見た。
湯気が立っている。
さっきまで、
“おいしい”と思っていたもの。
胃の奥が一気にひっくり返った。
「……嘘だろ」
彼女はゆっくり頷いた。
「あなたの犬、
すごく柔らかく煮えたよ」
その瞬間、
全身に鳥肌が立った。
ルカ。
私が仕事で落ち込んだ時も、
何も言わず隣にいてくれた犬。
帰りが遅くても、
必ず玄関で待っていた犬。
家族だった。
そのルカを、
彼女は――。
私は後ずさった。
でも彼女は、
本当に悪気がない顔をしていた。
むしろ、
褒めてほしそうだった。
「これで、
もっと私だけを見るでしょ?」
その笑顔が、
何より恐ろしかった。
怒鳴ることもできなかった。
涙も出なかった。
ただ、
頭の中で何度も同じことだけが響いていた。
家の中が、
静かすぎる。
その理由に、
私は気づくのが遅すぎた。