夫が急死した翌日。私は喪服のまま玄関で立ち尽くしていた。
インターホンが鳴き、扉を開ける。そこに立っていたのは、見知らぬ女と幼い子どもだった。
女の手首には翡翠の腕輪。そして女は静かな声で言った。
「私、彼の恋人です。この子は彼の子です」
私は言葉を失った。
さらに女は封筒を差し出しながら続ける。
「今日は相続の話をしに来ました」
夫は仕事帰りに突然倒れ、そのまま帰らなかった。私は妊娠中で、義母は重病。
病院、役所、葬儀、借金の督促。泣く暇すらなかった。
そんな中で現れた女は、腕輪を撫でながら言う。
「彼から預かったんです。代々の形見だって」
さらに子どもの書類の写しを見せ、
「法的な権利がありますから」
と淡々と話した。
私は深呼吸し、静かに返す。
「手続きは正式に進めます。第三者を通してください」
だが女は小さく笑った。
「大げさですね。借金もあるなら、分ける方が公平でしょう?」
その“公平”という言葉に、胸の奥が冷えた。
そして女は、信じられないことを言った。
「私、離婚を迫りませんでした。だから良心的な愛人でしょ?」
その瞬間。気づけば私は女の頬を叩いていた。
乾いた音が玄関に響く。子どもが怯えて女の後ろへ隠れた。
私は震える手を押さえながら言った。
「帰ってください」
叩きたかったのは女ではない。夫が残した嘘と、この地獄みたいな現実だった。
その後も女は連絡を寄越し、子どもの将来を理由に取り分を要求してきた。
だが私は感情で動くのをやめた。
借金の記録。夫の財産。残された書類。
私は一つずつ整理し、正式な手続きを進める準備を始めた。
相続は感情では決まらない。必要なのは、事実と記録だ。
私はもう、“良心的な愛人”という言葉に揺らがない。
私が守るのは、夫でも、女でもない。
この家に残された命と、これから生きていく明日だけだった。