その日の夜はいつもと変わらなかった。
私は中学生の娘と一緒にお風呂に入り、夫はリビングでテレビを見ていた。
ところが突然、
ドンッ!
という鈍い音が聞こえた。
慌てて浴室を飛び出すと、夫が床に倒れている。
顔色は悪く、苦しそうにお腹を押さえていた。
「ちょっと!大丈夫!?」
私はパニックになった。
頭の中は救急車のことでいっぱいだった。
しかし、その時だった。
娘が後ろから落ち着いた声で言った。
「ママ、たぶん死なないから大丈夫」
「え?」
私は思わず振り返った。
娘は呆れた顔をしている。
そして小さな声で言った。
「パパ、また飲みすぎたんだよ」
意味が分からなかった。
「何を?」
そう聞くと娘はリビングのゴミ箱を指差した。
中には見慣れない箱が大量に捨てられていた。
私は一つ手に取った。
そこには大きく、
『7日で若返る』
『男の自信を取り戻す』
と書かれていた。
私は絶句した。
娘はため息をつきながら言った。
「先週から毎日飲んでたよ」
「しかも説明書に一日二粒って書いてあるのに六粒くらい飲んでた」
私は夫を見た。
夫は気まずそうに目を逸らした。
結局、病院へ連れて行くと原因は薬の過剰摂取だった。
命に別状はなかった。
医師からも、
「サプリは薬じゃありませんが、過剰摂取は危険です」
と厳しく注意されていた。
帰宅後、私は夫を問い詰めた。
すると夫は観念したように話し始めた。
「来月、高校の同窓会があるんだよ…」
私は黙って聞いていた。
「昔好きだった人も来るらしくて…」
「少しでも若く見られたかったんだ…」
私は思わず額を押さえた。
五十代のおじさんが、怪しい広告を信じて若返ろうとしていたのである。
すると隣で聞いていた娘が言った。
「パパ」
夫が顔を上げる。
娘は真顔だった。
そして容赦なく言った。
「倒れた原因は老化じゃないよ」
夫が少し嬉しそうな顔をした。
だが次の瞬間。
「ただのバカだよ」
部屋が静まり返った。
私は吹き出した。
夫は何も言い返せなかった。
その後、怪しい通販サイトは禁止。
サプリも全部処分。
そして今でも同窓会の話になるたびに、娘は笑いながら言う。
「若返ろうとして救急外来行った人、世界でパパだけじゃない?」
そのたびに夫は黙り込む。
でも私は思う。
あの日、本当に一番冷静だったのは救急隊員でも私でもない。
間違いなく娘だった。