「別れてください」
夕食の後、妻の美咲はそう言って、静かに離婚届をテーブルへ置いた。
俺は最初、質の悪い冗談だと思った。
「は? なんの冗談かい?」
しかし美咲の表情は、冗談を言う人間のものではなかった。
「親権はあなたに譲ります。養育費も払います。慰謝料も、できる限り払います」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が冷たくなった。
隣の部屋では、まだ幼い息子が積み木で遊んでいる。
あの子を置いていくと言うのか。
俺は声を抑えながら尋ねた。
「理由を言え。何があった」
美咲は一度だけ目を伏せ、震える声で答えた。
「上司と……男女の仲になった」
空気が止まった。
「それだけじゃないのか」
俺の問いに、美咲は唇を噛んだ。
「上司の子の母親になる決心をしました」
その瞬間、怒りより先に、信じていた年月が音を立てて崩れた。
家族のために残業を増やし、休日には子どもを連れて公園へ行き、美咲が疲れている日は家事も引き受けてきた。
それでも、彼女の心は俺ではなく、別の男のもとへ向かっていた。
「息子の母親をやめるってことか」
俺がそう言うと、美咲は泣きながら首を振った。
「違う。でも、もう戻れない」
俺は離婚届を手に取り、破らずに封筒へ戻した。
「分かった。ただし、息子を傷つけたことだけは、一生忘れるな」
美咲は何も言えなかった。
その夜、息子が眠ったあと、俺は初めて一人で泣いた。
けれど翌朝、息子が小さな手で俺の袖を握り、「パパ、今日も一緒にいてね」と笑った。
その瞬間、俺は決めた。
裏切られた夫としてではなく、この子の父親として生きていくと。