出産を終えて、私は病院のベッドでようやく深い息をついていた。
初めて抱いた娘は小さく、温かく、すべての疲れが消えていくようだった。
そんな時、面会に来た夫が、少し硬い表情で言った。
「いい物件を見つけた。退院したら、新しい家に引っ越そう」
私は思わず聞き返した。
「え? 急すぎない?」
出産前から今の家で育児をする準備を進めていた。
ベビーベッドも置いたし、衣類も収納したばかりだった。
それなのに夫は、妙に真剣な顔で首を振った。
「今の家には戻らない方がいい」
その言葉に、胸の奥がざわついた。
夫は迷った末、ようやく事情を話してくれた。
実は数週間前から、私の車の後をつける不審な車があったという。
最初は偶然だと思っていたらしい。
しかし、勤務先の駐車場付近で何度も同じ男を見かけ、さらに私が産休に入った後も、自宅周辺を探るような動きがあった。
「車通勤だったから、家を特定しようとしていたみたいなんだ」
夫の声は低く、怒りを必死に抑えているようだった。
私は背筋が冷たくなった。
知らない間に、そんな危険が近くまで迫っていたなんて。
もし娘を連れて退院した日に、家の場所を完全に知られていたらと思うと、体が震えた。
夫はすでに警察へ相談し、防犯カメラの映像も提出していた。
新しい物件も、私と娘が安全に暮らせるよう、職場や以前の生活圏から少し離れた場所を選んでくれていた。
「黙っててごめん。でも、出産前の君を不安にさせたくなかった」
その言葉を聞いた瞬間、私は涙がこぼれた。
急な引っ越しだと思っていた。
でもそれは、夫が私と娘を守るために、必死で動いてくれた結果だった。
退院の日、私たちは前の家には戻らなかった。
新しい部屋の窓から差し込む光を見ながら、私は娘を抱きしめた。
この小さな命を守るためなら、何度でも生活を立て直そうと思った。