その日、
私は妊婦健診で産婦人科に来ていた。
平日の午前中だったけど、
待合室はかなり混んでいた。
お腹の大きい妊婦さん。
付き添いの夫婦。
泣きそうな小さな子ども。
独特の静かな空気が流れていた。
そんな中、
ひとりだけ異様に顔色の悪い男性がいた。
三十代くらい。
青白い顔で、
待合室の端の椅子に座っていた。
猫背で、
ずっと紙を握りしめている。
しかも周囲には、
立っている妊婦さんが何人もいた。
だからなのか。
突然、
近くにいた妊婦さんが声を荒げた。
「ちょっと、なんで男の人が座ってるんですか?」
待合室が一瞬静かになる。
女性はイライラした様子で続けた。
「見れば分かりますよね?
立ってる妊婦さんいるんですよ?」
男性は顔を上げた。
でも、
何も言わなかった。
ただ、
握っていた紙が少し震えていた。
女性はさらにヒートアップした。
「普通、自分から譲りません?
ここ産婦人科ですよ?」
すると周囲も、
なんとなく女性側の空気になった。
確かに、
言ってること自体は間違ってない。
妊婦さん優先。
それは普通の感覚だと思う。
でも。
私はその男性の様子が、
どうしても気になった。
汗の量がおかしかった。
今にも倒れそうな顔をしていた。
それでも男性は、
一言も反論しない。
すると女性は、
軽く男性の頭を叩いた。
「ちゃんと考えてくださいよ!」
その瞬間だった。
奥の処置室から、
看護師さんが飛び出してきた。
「やめてください!!」
待合室が凍った。
看護師さんは、
かなり強い口調だった。
そして男性の前に立つと、
女性へ向かって言った。
「その方は今、
奥様の緊急手術の同意書を書かれるご家族です」
空気が変わった。
「奥様も赤ちゃんも危険な状態なんです。
先ほどから気分も悪く、
倒れそうだったのでこちらで座っていただいてます」
女性の顔色が一気に変わった。
さっきまで強かった声が、
完全に消えた。
周囲の視線も、
今度は女性に集まり始めた。
男性はゆっくり立ち上がった。
そして小さく頭を下げた。
「……すみません」
いや、
謝るのおかしいだろ。
多分、
待合室にいた全員がそう思った。
でも男性は、
誰も責めなかった。
怒鳴り返しもしなかった。
ただ、
かすれた声でこう言った。
「妻と子どもが無事なら…
それだけでいいです」
その言葉を聞いた瞬間、
私は胸が苦しくなった。
女性は何か言おうとしていた。
でも、
結局何も言えなかった。
ただ、
立ち尽くしていた。
その後、
男性は看護師さんに支えられながら奥へ入っていった。
待合室には、
なんとも言えない空気だけが残った。
私はあの日、
すごく怖いものを見た気がした。
悪意じゃない。
むしろ、
“正しいことをしている”
という感覚。
それが一番、
人を攻撃的にしてしまう時がある。
もちろん、
妊婦さんを優先するのは大事だと思う。
でも。
事情を知らないまま、
誰かを“悪”だと決めつける怖さを、
私は忘れられない。
あの男性の震える手と、
最後の一言が、
今でも頭から離れない。