私は恵一、三十九歳。
妻の綾乃に誘われ、彼女の会社の懇談会に「家族枠」で参加していた。
会場は華やかで、社員たちも穏やかに会話していた。
綾乃が周囲から信頼されているのもすぐに分かった。
だが、その空気は一瞬で崩れた。
日野圭祐。
社長の息子であり、現場で問題視されている人物。
彼が現れた瞬間、周囲の表情がわずかに強張った。
「へえ、君が綾乃さんの旦那?」
そう言いながら、私の名刺を手に取る。
次の瞬間、それをためらいなく引き裂いた。
「ゴミ配らないでくださいよ。底辺のおっさんが使う名刺なんて」
紙片が床に散る。
会場は完全に静まり返った。
だが、彼は止まらない。
隣にいた父親――社長も、何も言わずに見ているだけだった。
私は怒らなかった。
ただ、綾乃を見た。
彼女は一瞬だけ呆れた表情を見せ、そして小さく笑った。
その時点で、すべては決まっていた。
直後、綾乃のスマホが鳴る。
「はい……わかりました。主人に代わります」
受け取った瞬間、相手は分かっていた。
短く会話を終え、私はその場で口を開いた。
「どうやら決まりました」
全員の視線が集まる。
「この場にいる圭祐さんと、あなたの父親——クビです」
一瞬の沈黙のあと、ざわめきが広がった。
「は? 何言ってんだ!」
圭祐が詰め寄ってくる。
私は足元の紙片を指差した。
「そこに書いてありましたよね。“探偵”と」
その一言で、空気が変わる。
「私と妻は、大株主から依頼を受けて御社を調査していました」
綾乃も静かに続けた。
「パワハラ、圧力、コンプライアンス違反。すべて記録済みです」
そしてスマホのスピーカーから声が響く。
『……圭祐、聞いているな』
低く重い声。
創業者であり最大株主、日野正一郎だった。
その声だけで、二人の表情は一変した。
『会社はお前たちの私物じゃない』
『人を見下す人間に経営は任せられん』
その場で、すべてが終わった。
圭祐は言葉を失い、社長は顔面蒼白のまま立ち尽くす。
誰も笑わなかった。
ただ、長年溜まっていた空気が、静かにほどけていくのを感じた。
会場を後にしながら、綾乃が小さく聞いた。
「どうだった?」
私は短く答えた。
「想像以上に分かりやすかったな」
綾乃は軽く笑った。
「これで終わり。次は旅行の計画ね」
私は頷いた。
あの一瞬で、すべてが逆転した。
名刺を破られた夜は、
同時に、すべてが崩れた夜でもあった。