「毎日850円くらいで怒るなんて、器が小さいな。」
給与明細を見ながら夫は笑って言った。
私はその瞬間、怒りより先に呆れた。
問題は850円じゃない。
その850円で毎朝30分早く会社へ行ける夫の「快適な時間」を、誰が作っていたのかという話だ。
私は毎朝5時半に起きる。
朝食を作り、お弁当を詰め、コーヒーを淹れ、洗濯機を回し、まだ寝ている夫を起こす。
「あと5分。」
「まだ眠い。」
そんな夫を何度も起こして、ようやく7時に送り出す。
その夫は、自腹で高速道路を使い、
「時間はお金で買うものだから。」
と得意そうに言った。
私は思わず聞いた。
「じゃあ、私の朝の2時間はいくらなの?」
夫は笑ったまま、
「夫婦なんだから当たり前じゃん。」
と言った。
その一言で、何かが完全に切れた。
私は何も言い返さなかった。
代わりに、その日から全部記録することにした。
私が起きた時間。
朝食作りにかかった時間。
弁当作り。
洗濯。
夫を起こした回数。
高速料金。
コンビニで買ったコーヒー。
休日に一人で昼寝した時間まで。
一週間後。
義両親も来ていた夕食の席で、私は一冊のファイルをテーブルへ置いた。
「今日は少しだけ聞いてください。」
夫は笑っていた。
「また家計簿の話?」
私は一枚目を開いた。
「高速代、毎日850円。」
「月約2万円。」
「年間約24万円。」
夫は頷いた。
「だから?」
私は次のページをめくる。
「私は毎朝2時間。」
「年間730時間。」
「最低賃金で計算しても100万円以上。」
部屋が静かになった。
私は続けた。
「あなたは自分の30分を守るために毎日850円払う。でも、私の2時間は0円で当然だと思ってる。」
義母が初めて夫を見た。
夫は慌てて、
「いや、それは夫婦だから…」
と言いかけた。
私は遮った。
「じゃあ明日から全部自分でやって。私はあなたの30分を支える仕事を辞めるから。」
義父が小さくため息をついた。
「お前、それは嫁さんに甘えすぎだ。」
夫は何も言えなくなった。
翌朝。
私は夫を起こさなかった。
お弁当も作らない。
朝食も用意しない。
私はいつも通りの時間まで眠った。
しばらくして、
「遅刻する!」
という夫の叫び声で目が覚めた。
寝癖のまま慌ててパンをくわえ、家を飛び出していく夫。
もちろん、お弁当もない。
その日、高速道路は使わなかったらしい。
高速に乗っても、起きる時間が遅ければ意味がないからだ。
夜、帰宅した夫は珍しく静かだった。
「ごめん…。毎朝こんなに大変だったんだな。」
私は一言だけ返した。
「あなたが払っていた850円は、高速代じゃない。」
「本当は、私の時間に払うべきだったお金だよ。」
それ以来、夫は自分で起き、自分で朝食を作り、週の半分はお弁当も担当するようになった。
結局、結婚生活を壊しかけたのは850円ではない。
「自分の時間だけはお金を払ってでも守るのに、妻の時間は無料だと思っていたこと」。
それこそが、一番高くついた代償だった。