妊娠後期に入ってから、長時間立っているだけで腰は痛くなるし、お腹も張りやすくなった。
その日も産婦人科で順番を待っていたけれど、待合室には空いているように見える席がいくつもあった。
近づいてみると、座っているのは人ではなくバッグ。
持ち主は隣の席でスマホを見ている男性だった。
「バッグのための席なんだ……」
そう思うと、何とも言えない気持ちになった。
私は夫に小さな声で言った。
「付き添いの人も結構座ってるね。」
夫は困ったように笑いながら、
「まあ……でも言えないよ。」
と答えた。
その一言で、私はさらに悲しくなった。
知らない人が譲ってくれないことより、隣にいる夫が私のために一言も言えないことの方がつらかった。
待ち時間は40分を超えた。
腰が限界に近づき、私はゆっくりその男性の前まで歩いた。
何も言わない。
怒鳴りもしない。
私は自分のバッグを、その男性のバッグの上にそっと置いた。
私のバッグに押されて、男性のバッグが少しずれた。
男性はようやく顔を上げた。
自分のバッグが一席を占領していたことに気付いたのか、慌ててバッグを抱え、
「あっ、すみません。」
と席を空けた。
私は静かに「ありがとうございます」とだけ言って座った。
その瞬間、待合室を見渡すと、バッグを置いていた人たちも次々と荷物を膝の上へ移していた。
誰かが注意したわけでもない。
でも、一人が気付けば空気は変わる。
帰り道、夫がぽつりと言った。
「俺、何も言えなかった……。」
私は少し笑って答えた。
「欲しかったのは、席だけじゃないよ。」
「私の隣で、『妊婦だから座ってください』って、一言言ってくれる勇気だった。」
あの日、一番重かったのは、お腹じゃなかった。
妊婦よりバッグが優先される空気と、その空気に何も言えなかった夫の沈黙だった。