私は五十代の主婦です。
夫とは大学時代、同じサークルで知り合いました。
人見知りで無口な夫と、おしゃべり好きな私。
正反対の性格でしたが、不思議と居心地がよく、私から告白して交際が始まりました。
結婚して二十五年。
大きな夫婦喧嘩もなく、いつも夫は私のわがままを笑って受け入れてくれました。
だから銀婚式は、二人にとって特別な一日にしたかったのです。
当日、予約していた人気のフレンチレストランへ向かいました。
受付で予約名を伝えると、店員さんは予約表を何度も確認し、不思議そうな顔で言いました。
「確かに二名様でご予約をいただいておりますが……。」
私はホッとしました。
ところが次の瞬間。
「申し訳ありません。当店では、お一人でのご利用はお受けできません。」
私は耳を疑いました。
「何をおっしゃっているんですか?主人も一緒です。」
店員さんは困ったように私の横を見ました。
「……お客様、お一人でご来店されていますよね。」
意味が分かりませんでした。
私は夫の腕をつかみ、
「ほら、ここにいます。」
と言いました。
でも店員さんは首を横に振るだけでした。
私は腹が立ち、
「人を馬鹿にしているんですか!」
と大声を出してしまいました。
周囲のお客さんが一斉にこちらを見ます。
その間も夫は私の隣で、
「もう帰ろう。」
と静かに笑っていました。
私は納得できないまま店を出て、スーパーで食材とワインを買い、自宅で簡単な夕食を作りました。
悔しくてお酒を飲みながら、その夜、私はネット掲示板へ出来事を書き込みました。
「店員が主人を無視した。」
「予約までしていたのに追い返された。」
すると返信が次々と届きました。
最初は同情するコメントが多かったのですが、次第に雰囲気が変わります。
「店員の説明、おかしくない?」
「二人予約なのに、一人では案内できないってどういう意味?」
「ご主人の話が全然具体的じゃない。」
さらに私は、愚痴の中でこう書いてしまいました。
「息子は私がおかしいと言って精神科へ行けとうるさい。
」
その瞬間、掲示板の空気が一変しました。
「もしかして、ご主人は……。」
「一度病院へ行った方がいい。」
私は怒りで震えました。
「みんな店員とグルなんでしょう!」
そう書き残し、私は掲示板を閉じました。
数時間後。
掲示板へ、一件の書き込みが投稿されます。
投稿者は、私の息子でした。
「母がご迷惑をおかけしました。」
そこには、私も知らない真実が書かれていました。
父は七年前、交通事故で亡くなっています。
母はその事実を受け入れられず、今でも父が隣にいるように生活しています。
レストランも、母が一人で二名予約をしていました。
店には母しか来ていません。
店員さんは困り、警察へ相談し、私が迎えに行きました。
警察署で母は、誰も座っていない椅子へ向かって、
「あなたも悔しかったでしょう?」
と父へ話しかけ続けていました。
私は何度も現実を伝えました。
「お父さんはもう帰ってこない。」
でも母は笑って答えます。
「何を言ってるの。そこにいるじゃない。
」
私はようやく理解しました。
母は嘘をついていたのではありません。
母には、本当に父が見えていたのです。
現在、母は療養施設で生活しています。
病気が治ることはありません。
それでも毎日、父と楽しそうに話し、お茶を飲み、散歩をしています。
医師からは、
「無理に否定すると症状が悪化します。」
と言われました。
だから私は、もう訂正しません。
母にとって父は今も生きています。
それが現実ではなくても、母は笑顔で毎日を過ごしています。
私はようやく思えるようになりました。
もしその幻想が、母を幸せにしているのなら。
私はその幸せだけは、最後まで壊したくないのです。