満員電車の朝、俺も余裕がなかった。肩と肩がぶつかり、吊り革が軋む中、遅刻だけは避けたいと思い、ホームに滑り込む車両へ体をねじ込んだ。
次の瞬間だった。
「……っ、う、」
近くで小さな呻き声。倒れたのは、いわゆる“美人”と呼ばれる女性。顔色は青白く、呼吸は浅い。瞬きが止まり、唇が微かに震える。周囲の人間は目をそらし、誰も近づこうとしない。
「どいてください! 呼吸、確認します!」
膝をつき、肩を軽く叩く。脈も反応も薄い。迷っている時間は命取りだ。
「AED、誰か取って!」
乗客が駆け出し、非常ボタンが押される。俺は音声ガイドに従い、衣服をずらして電極パッドを貼る。
解析後、ショック指示。離れて!と叫ぶ。体が小さく跳ねた。続いて胸骨圧迫。汗が額を伝い、腕は重くなる。
駅員・救急隊が到着する頃、女性はわずかに呼吸を取り戻し、目が動いた。
「助かりました。対応素晴らしい」
力が抜ける。だが、電車は止まり、会社には遅刻した。
上司は鼻で笑い、俺の顔を見るなり言った。
「AED?倒れた女?今どき訴えられて人生終了だぞ、さすが中卒w」
腹は立つが、あの場で止めていたら女性はどうなっていたか――揺るがない。
数日後、社長秘書に呼ばれ、社長室に入ると、見慣れない女性がいた。怒りを抑えた表情、鋭い視線。
「先日は妹を助けていただきありがとうございました」
妹――倒れた女性だ。助かったことを伝えに来たのだ。
だが、続く言葉で空気は一変する。
「御社の管理職が救命行為を“中卒”と嘲笑したと聞きました」
社長は震える手で書類を見つめる。処分、再発防止、対外説明。上司は顔面蒼白。女性はさらに続ける。
「彼は私の妹の命を救った。命を笑った者に責任はあります」
上司は口を開けるだけ。俺は静かに床を見つめる。望んだ結果ではない。ただ、命を救っただけだ。
社長は観念し、俺に表彰と救命手当、部署の見直しを約束した。上司はその後、社内外で謝罪・処分。
あの日、倒れた女性は助かった。そして、俺の正しい行動が、会社の傲慢な空気を変えた。命を守る勇気は、嘲笑を越える力になる――そう実感した朝だった。