終電は、
もう終わっていた。
その日は出張帰り。
駅に着いた時には深夜を回っていて、
ホテルに泊まるか迷った。
でも、
どうしてもその日のうちに帰りたかった。
仕方なく、
駅前でタクシーを拾った。
「○○市までお願いします」
運転手はバックミラー越しに、
じっとこちらを見た。
「距離ありますけど、大丈夫ですか?」
「ええ、前にも何回か乗ってるので」
実際、
過去にも同じ区間を利用したことがある。
高額なのは分かっていた。
でも、
せいぜい三十万円前後だった記憶だ。
運転手は小さく頷き、
車を走らせた。
最初は、
特に違和感はなかった。
高速に乗り、
夜の道路をひたすら進む。
街灯だけが流れていく。
だがしばらくして、
私は妙な感覚を覚えた。
「あれ……?」
見覚えのないインターを通ったのだ。
私は聞いた。
「今どこ通ってます?」
運転手は淡々と答えた。
「こっちの方が早いんですよ」
その時は、
まだ疑わなかった。
深夜だし、
工事や渋滞回避かもしれない。
でもその後も、
知らない道が続いた。
高速を降りて、
また別の高速へ。
どう考えても、
遠回りしているようにしか見えない。
私は言った。
「このルート、
いつもと違いますよね?」
すると運転手は、
少し笑いながら言った。
「夜は変わるんですよ」
その笑い方に、
妙な違和感が残った。
でも、
疲れていた私は、
それ以上追及しなかった。
そして数時間後。
ようやく目的地に到着した。
私は財布を出しながら、
何気なくメーターを見た。
次の瞬間、
頭が真っ白になった。
『860,940円』
「……は?」
思わず声が漏れた。
八十六万?
意味が分からなかった。
私は運転手へ言った。
「これ、間違ってません?」
運転手は平然としていた。
「メーター通りです」
私は強めの口調になった。
「前に同じ距離乗った時、
三十万くらいでしたよ?」
運転手は肩をすくめた。
「遠回りしてませんし」
——その瞬間、
確信した。
おかしい。
私はスマホを取り出した。
地図アプリを開き、
走行履歴を確認する。
そして、
思わず笑ってしまった。
「これ、
通常の倍以上走ってますよ」
画面を見せる。
明らかに不自然なルートだった。
普通なら絶対通らない道。
無駄に迂回している箇所。
私は静かに言った。
「警察呼びますね」
その瞬間。
運転手の顔色が変わった。
「いや、それは……」
「説明できますよね?」
沈黙。
数分後、
警察が到着した。
事情を説明し、
スマホの履歴を見せる。
警察官も、
途中から表情を変えた。
「……これ、
おかしいですね」
さらにメーター履歴を確認したあと、
警察官が言った。
「このメーター、
前の乗客の走行距離がリセットされてません」
「……え?」
つまり——
前の客の料金が、
そのまま加算されていた。
さらに、
遠回り分まで上乗せ。
結果、
八十六万円。
運転手は俯いたまま、
小さく言った。
「……ミスです」
私は思わず笑った。
「ミスで86万になるんですか?」
返事はなかった。
最終的に、
正しいルートで再計算され、
料金は約32万円になった。
私はその金額だけ支払い、
車を降りた。
夜風が妙に冷たかった。
歩きながら、
ふと思った。
もし、
あの時何も言わなかったら。
もし、
スマホを見なかったら。
もし、
“疲れてるからいいや”で済ませていたら。
あの八十六万円は、
そのまま請求されていたのかもしれない。
世の中で一番怖いのは、
高額請求じゃない。
遠回りでもない。
「おかしい」と気づけなくなることだ。
それ以来、
私はタクシーに乗る時、
必ず地図を開くようになった。
そして——
メーターを、
無条件では信じなくなった。