出張帰りだった。
疲れていた。
早く家へ帰って、
シャワーを浴びて眠りたかった。
でも、
家の近くまで来た瞬間、
嫌な予感がした。
赤い光。
サイレン。
そして、
空へ立ち昇る黒煙。
私は車を急停止させ、
そのまま飛び降りた。
家が燃えていた。
消防車が何台も停まっている。
近所の人たちが、
遠巻きにざわついていた。
「嘘でしょ……」
足が震えた。
警察が何か説明していたが、
頭に入ってこない。
私は無意識に、
家へ向かって走っていた。
すると消防士に止められた。
「危険です!入らないでください!」
でも、
どうしても確認したかった。
夫は?
家は?
何が起きた?
焦げ臭い煙が、
喉を刺した。
私は半ば無理やり、
家の奥を見た。
その時だった。
風呂場の方から、
人の気配がした。
薄暗い湯気の向こう。
誰かいる。
私は息を殺して近づいた。
そして——
聞こえた。
夫の声だった。
「嫁は明日帰宅だから、大丈夫」
その瞬間。
頭の中が真っ白になった。
……は?
私は今日帰る。
ちゃんと連絡もした。
出張が早く終わったことも、
夫へ伝えていた。
なのに、
なぜ「明日帰る」ことになってる?
しかも、
“誰に向かって”言ってるの?
次の瞬間、
全部繋がった。
夫は、
私がいない前提で誰かを家へ入れていた。
そして今、
火事の中でも、
その相手を安心させようとしている。
私は壁越しに、
もう一人の影を見た。
女だった。
胸の奥で、
何かが壊れる音がした。
火事より先に、
結婚生活が終わった気がした。
私は何も言えなかった。
怒鳴ることも。
泣くことも。
ただ、
静かにその場を離れた。
外へ出ると、
警察官が声をかけてきた。
「奥様、大丈夫ですか?」
でも、
返事ができなかった。
その時の私は、
もう“家を失ったショック”じゃなかった。
信じていたもの全部が、
燃えていた。
その後、
夫と女は家から救出された。
さらに、
別の男もいたと後で聞かされた。
三人とも、
煙を吸って搬送されたらしい。
警察の話では、
火元は室内。
詳しい原因は調査中。
でも私は、
もうどうでもよかった。
事故なのか。
過失なのか。
隠していた何かなのか。
そんなことより、
夫が火事の中で最初に守ろうとしたのが、
私じゃなかった。
その事実だけで十分だった。
数日後。
夫から何度も連絡が来た。
「誤解なんだ」
「ちゃんと説明したい」
「頼むから話を聞いてくれ」
でも、
もう無理だった。
本当に終わる時って、
怒りより先に、
感情が消える。
私は返信しなかった。
燃えた家も。
壊れた結婚も。
もう、
戻らない。
だから私は決めた。
振り返らない。
全部失ったなら、
もう前に進くしかない。
あの日、
黒煙の向こうで終わったのは、
家じゃなかった。
“信じていた未来”そのものだった。