母が危篤だと病院から連絡を受けたのは、平日の昼過ぎだった。
スマホを握る手が震えた。
医師の声は落ち着いていたが、その内容は残酷だった。
「ご家族の方は、できるだけ早く来てください」
私はすぐに荷物をまとめた。
頭の中は真っ白だった。
そんな私を見ながら、夫はソファでスマホをいじっていた。
「母が危篤なの」
そう伝えた瞬間だった。
夫は顔も上げずに鼻で笑った。
「他人のババァがどうなろうと知るかw」
私は言葉を失った。
冗談だと思いたかった。
だが夫は続けた。
「俺は前から予約してた温泉旅行あるし」
「じゃ、行ってくるわw」
そう言って荷物を持ち、家を出ていった。
私は何も言えなかった。
怒る余裕もなかった。
今は一秒でも早く母の元へ行きたかったからだ。
病院へ着いた時、母はもうほとんど意識がなかった。
酸素マスクをつけ、かすかに呼吸をしている。
私は母の手を握った。
子供の頃の思い出。
反抗期に迷惑をかけたこと。
結婚してから支えてくれたこと。
感謝の言葉を何度も伝えた。
母が聞こえていたのかは分からない。
それでも話し続けた。
数時間後。
母は静かに息を引き取った。
私は泣いた。
声が枯れるほど泣いた。
だが悲しんでいる暇はなかった。
葬儀の準備。
親戚への連絡。
役所の手続き。
次から次へとやることが押し寄せてきた。
その間、夫から連絡はなかった。
心配する言葉もない。
葬儀に来る気配もない。
ただ一度だけ、
「温泉気持ちいいわー」
という写真付きのメッセージが届いた。
私は返信しなかった。
怒りを通り越していた。
三日後。
葬儀を終えた私は、ようやく自宅へ戻った。
玄関の鍵を開ける。
ドアが開く。
するとリビングから夫が出てきた。
日焼けした顔。
楽しそうな表情。
旅行帰りそのものだった。
そして何事もなかったように言った。
「おかえり」
その瞬間。
私の中で何かが完全に終わった。
怒鳴りたかった。
責めたかった。
でも不思議と冷静だった。
私は夫を見た。
そして静かに言った。
「お義母さんのお葬式、終わったよ」
夫の表情が固まった。
数秒。
理解できなかったらしい。
そして顔色が変わった。
「え……?」
私は続けた。
「あなたが言ったじゃない」
「他人のババァがどうなろうと知るかって」
「だから、お義母さんが亡くなったことも知らなくて当然だと思って」
夫は青ざめた。
慌てて言葉を探している。
だが何も出てこない。
私はその姿を見ていた。
怒りはもうなかった。
悲しみも少し違うものに変わっていた。
人は大切な時に本性が出る。
母の最期を前にして、
私の隣に立ってくれる人だと思っていた。
でも違った。
温泉旅行を選んだのだ。
母を失った悲しみは消えない。
けれどあの日、私はもう一つのものを失った。
夫への信頼だった。
そして一度失った信頼は、
母の命と同じように、
二度と戻ってこないのだと知った。