認知症の母を入浴させるたび、介護士の優夏さんは必ず浴室の鍵をかけていた。
「ねえ、鍵かけてるよね……少し変じゃない?」
私がそう言うと、夫の将太も不安そうにうなずいた。
私は西原紗子、三十歳。夫と結婚して十年。今は認知症を患う母と三人で実家に暮らしている。
最初はただの物忘れだった。だが次第に症状は悪化し、お金を捨てたり、私を疑って怒鳴ったりするようになった。時には感情が抑えられず、手を上げそうになることもあった。
限界を感じた私たちは、訪問介護を頼むことにした。
そこで来てくれたのが、介護福祉士の打越優夏さんだった。明るく手際もよく、入浴や着替えの介助を丁寧にこなしてくれる。正直、とても助かっていた。
ただ一つだけ気になることがあった。
入浴介助のとき、必ず浴室のドアを閉めて鍵をかけることだ。
ある日、母の腕に青い痣を見つけた瞬間、私の胸はざわついた。
「もしかして……」
不安が膨らみ、私たちは隠しカメラを設置することにした。
数日後、私と将太はパソコンの前で映像を確認した。
画面には、優夏さんが母を支えて浴室に入る様子が映っていた。
「お湯、熱くないですか?」
母は穏やかに答えていた。そして優夏さんはドアを閉め、静かに鍵をかけた。
その直後、母が突然叫んだ。
「帰れ!泥棒!」
次の瞬間、母は自分の腕を強く引っ掻き始めた。
優夏さんは慌てて手を押さえる。
「お母さん、ダメです。傷になりますよ!」
母は暴れ続ける。
「触るな!泥棒!」
優夏さんは静かに母を後ろから抱きしめ、優しく声をかけ続けた。
「大丈夫ですよ。怖くないですから」
やがて母は力を失い、涙を流した。
「……ごめん」
優夏さんは微笑んで答えた。
「大丈夫です。お母さん、ちゃんと頑張ってますよ」
その瞬間、私はすべてを理解した。
浴室の鍵は、母が外へ飛び出さないようにするため。
そして痣の原因は――母自身だったのだ。
私は涙を止められなかった。
将太も震えながら言った。
「……俺たち、優夏さんを疑ってた」
映像の中で、優夏さんが小さくつぶやいた。
「紗子さんたちも大変ですよね。でも、お母さん幸せですよ。こんなに大事にされてるんですから」
翌日、私は優夏さんに深く頭を下げた。
「本当にありがとうございます」
母の介護は今も続いている。決して楽ではない。
それでも私は思う。
あの浴室の鍵は、誰かを閉じ込めるためのものではなかった。
それは――大切な人を守るための鍵だったのだ。