その日は、朝から腰の調子が最悪だった。
湿布を貼って出勤したけど、
夕方にはもう、
立っているだけで腰に鈍い痛みが走る。
デスクワークなのに、
今日は朝からバタバタで、
座る時間より立ってる時間の方が長かった。
帰る頃には、
本当に限界だった。
「今日は座れたらいいな……」
そう思いながら、
私は地下鉄へ乗り込んだ。
夕方の車内はかなり混んでいた。
吊革につかまる人でいっぱい。
空席なんてほとんどない。
でもその時、
車両の奥にひとつだけ空席が見えた。
「あ……助かった」
私はほっとして、
その席へ向かった。
ただ、
近づいた瞬間、
少し違和感があった。
その空席の両側には、
大学生くらいの男の子が二人座っていた。
二人とも足を広げ、
肘も大きく張っている。
しかも大声で喋っていて、
明らかに
“ここには座らせません”
みたいな空気を作っていた。
正直、
ちょっと嫌な感じはした。
でも、
本当に腰が限界だった。
だから私は勇気を出して、
できるだけ丁寧に声をかけた。
「すみません、そこ座ってもいいですか?」
すると左側の男が、
私の顔を見て笑った。
「は?」
そして、
隣の男と顔を見合わせながら言った。
「喋ってるの見てわからない?」
一瞬、
耳を疑った。
周囲も少し静かになる。
でも私は、
怒らないようにしながら、
もう一度だけ言った。
「だから、聞いたんですけど」
すると今度は、
右側の男が鼻で笑った。
「じゃあダメw」
その瞬間、
二人は顔を見合わせて、
クスクス笑い始めた。
……悔しかった。
でもそれ以上に、
情けなかった。
こんなことで揉めたくない。
腰は痛い。
疲れてる。
しかも周りも、
誰も何も言わない。
私は小さく息を吐いて、
吊革へ戻ろうとした。
その時だった。
「おねーさん」
低い声が聞こえた。
振り向くと、
少し離れた場所に座っていた、
黒いパーカー姿のお兄さんがこちらを見ていた。
腕も太い。
目つきもちょっと鋭い。
正直、
最初は少し怖そうだと思っていた人だった。
そのお兄さんは、
ゆっくり立ち上がると、
私へ向かって言った。
「俺そっち行くから、ここ座りな」
「え……?」
私は思わず固まった。
するとお兄さん、
そのまま大学生二人の方へ歩いて行って——
“ドン”
二人の間に、
かなり勢いよく座った。
しかも、
めちゃくちゃ深く。
腕を組み、
背もたれにどっしり寄りかかる。
空気が、
一瞬で変わった。
さっきまで大声で笑っていた大学生二人。
完全に黙った。
というか、
喋れない。
物理的にも、
空気的にも。
大学生たち、
急にスマホを見るフリを始める。
でも耳まで真っ赤。
私はもう、
吹き出しそうになるのを必死で我慢しながら、
お兄さんが空けてくれた席へ座った。
周囲の乗客も、
なんとなく察していた。
「あ、今立場逆転したな」
みたいな空気。
しかもお兄さん、
何も言わないんです。
説教もしない。
睨みもしない。
ただ、
真ん中に座ってるだけ。
なのに、
圧がすごい。
大学生二人、
肩がどんどん小さくなっていく。
数分後、
電車が次の駅へ止まった。
片方の大学生が、
小声で言った。
「……降りる?」
でももう片方、
お兄さんを挟んでるせいで、
聞こえないフリ。
私はもう、
笑いを堪えるので限界だった。
その後も二人は、
妙な姿勢のまま固まっていた。
さっきまでの威圧感、
全部消えていた。
数駅後。
私が降りるタイミングになった。
私は立ち上がって、
お兄さんへ頭を下げた。
「ありがとうございました」
するとお兄さん、
少し照れたみたいに笑った。
「困ってる人いたら普通っしょ」
その瞬間、
なんだか泣きそうになった。
最近って、
見て見ぬふりする人が多い。
面倒事に関わりたくない人も多い。
私も普段なら、
「しょうがない」
で我慢してたと思う。
でもあの日、
地下鉄で思った。
本当に怖い人って、
見た目じゃない。
そして、
本当にかっこいい人も、
見た目じゃないんだって。