「98円のパンが、9円になっていた。」
一瞬、
目がバグったのかと思った。
私は値札を見直した。
棚を見た。
もう一回値札を見た。
……やっぱり9円。
某スーパーのパン売り場だった。
期限が近いパンに、
値引きシールが貼られている。
よくある光景。
でもその日は違った。
20%引きシールが、
なぜか二重に重なっているように見える。
しかも表示は、
「9円」。
「いや、これは……」
私は近くにいた店員さんへ声をかけた。
「すみません、これ、値段合ってますか?」
店員さんは値札を見るなり、
眉をひそめた。
そして、
パンと値札を交互に見たあと、
言った。
「……これは売れません」
え?
私は一瞬固まった。
いや、
私はただ確認しただけだ。
むしろ、
正直に聞いた側だ。
「えっと、間違いなら戻しますけど……」
そう言いかけた瞬間。
店員さんは、
少し強めの口調で被せてきた。
「値札ミスなので無効です。売れません」
その言い方が、
妙に刺さった。
ミスなのは店側なのに、
なぜか私が悪いことをしている空気になっている。
周りには買い物客が何人かいて、
誰かがチラッとこちらを見た。
私は一度、
引き下がろうとした。
9円のパンで揉めるのも嫌だし、
私だって忙しい。
「わかりました。じゃあ戻します」
そう言って、
棚へ戻そうとした。
その時だった。
店員さんが、
ため息混じりに言った。
「……そこまでして欲しいんですか?」
空気が、
一瞬止まった。
その言葉は、
値段の話じゃなかった。
“9円に必死なんですね”
“そこまで執着する?”
“なんか必死すぎません?”
そういう、
見下すニュアンスが混ざっていた。
私は、
棚へ戻しかけた手を止めた。
……え?
私、
今“乞食扱い”された?
胸の奥が、
スッと冷えた。
同時に、
静かに火がついた。
私は感情をぶつけず、
声の温度だけ落として言った。
「すみません。今の言い方、どういう意味ですか?」
店員さん、
一瞬目を泳がせた。
でもすぐに、
逃げ道みたいな言葉を出した。
「いや、そういうつもりじゃ……。とにかく売れませんので」
——三回目。
拒否。
押し切り。
そして人格を下げる一言。
私はもう、
“パンを買うかどうか”
の話をしていなかった。
“客に向けて言っていい言葉か”
の話をしていた。
私は静かに言った。
「責任者の方、お願いできますか。店長さんで」
自分でも驚くほど、
落ち着いた声が出た。
店員さんは露骨に嫌そうな顔をしたあと、
奥へ引っ込んだ。
待っている間、
私はパンをカゴへ入れたまま立っていた。
周囲の視線が、
また少し集まる。
でも私は目を逸らさなかった。
恥ずかしくない。
私は確認した。
侮辱された。
だから手順を踏む。
それだけだ。
しばらくして、
店長さんが来た。
胸の名札。
落ち着いた雰囲気。
店員さんが、
小声で事情を説明している。
店長さんは値札を見て、
パンを見て、
すぐ状況を理解したようだった。
そして、
私へ丁寧に頭を下げた。
「ご不快な思いをさせてしまい、申し訳ございません」
そのあと、
はっきりと言った。
「こちら、表示価格で販売いたします」
その一言一句が、
プロだった。
“謝る”だけじゃない。
“どう対応するか”
が明確だった。
私は確認するように、
淡々と伝えた。
「値段のことより、先ほどの『そこまでして欲しいんですか?』という言い方が気になりました」
その瞬間、
店長さんの表情が変わった。
笑顔が消え、
目が真っ直ぐになった。
「……その発言は不適切です」
店長さんは、
店員さんの方を向いた。
「お客様に対して言ってはいけません」
店員さんは黙ったまま、
小さく頭を下げた。
さっきまでの強い口調は、
完全に消えていた。
店長さんは続けた。
「値札ミスがあった時こそ、まずこちらが謝るべきです」
「お客様は確認してくださっただけです。それを責めるような口調にしたこと、反省してください」
その場の空気が、
完全に変わった。
店長さんはさらに説明した。
「値引きシールが重なったことと、設定ミスが重なった可能性があります。こちらの管理不足です」
「今日は表示価格で販売します。今後は再発防止を徹底します」
私はそこで、
初めて息を吐いた。
レジでは、
パンは本当に9円で通った。
でも、
“安く買えた”
という感覚じゃなかった。
“ちゃんと戻った”
という感覚だった。
私は店長さんへ軽く会釈して、
店を出た。
外の空気は少し冷たくて、
頭が冴えた。
たった9円。
でも、
もしあの言葉を飲み込んでいたら、
私はきっとずっとモヤモヤしていたと思う。
客として、
普通に確認しただけ。
それで見下されるなら、
黙って終わらせない。
そして何より、
私は思った。
こういう店に、
私はお金を落としたい。
安さじゃない。
“人を雑に扱わない店”に。