畳敷きの座敷に通された瞬間、空気が一段冷えた気がした。
白崎家――地元で名の知れた個人クリニックを営む医師一族。その屋敷は、門構えからして威圧感があった。
私は研修医になったばかりで、背筋が伸びきったまま固まっていた。隣には婚約者の白崎玲子がいて、緊張しながらも手を握ってくれる。
そして、もう一方には、私を育ててくれた姉――原田姉音がいる。彼女だけは、まるで取引先の応接室であるかのように落ち着いていた。
「今日はよく来てくれたね」
義父にあたる白崎院長は、柔らかな笑みを見せた。義母も上品に頷き、茶菓子が運ばれてきた。
玲子の肩の力も、ほんの少しだけ抜けたように見えた。
だが――話題が「家族」に触れた途端、すべてが反転した。
「ご両親は都合がつかなかったのかな……まさか、お姉さんだけが来るとは」
私は深呼吸して告げた。
「両親は、子どもの頃に病気で亡くなりました。姉が親代わりとして、俺を育ててくれたんです」
その瞬間、義父の顔から血の気が引き、次いで怒りの赤が浮かんだ。
「なんだと……親がいない? つまり資産も何もないってことか!」
義母も露骨に顔を曇らせる。
「玲子、どうしてこんなのを……もっとまともな家の人じゃなきゃ駄目でしょう!」
俺は言葉が追いつかなかった。両親がいない、ただそれだけで、ここまで人を貶められるのか。
玲子は怯えた目で両親を見つめ、声を震わせる。俺は胸の奥を針で突かれるような痛みを覚えた。
――姉は、俺の人生そのものだ。
両親を失い、兄が家を出て行き、泣き続ける俺を抱きしめて「大丈夫、あんたは何も心配しなくていい」と言ってくれた人。
高校を辞めてまで働き、昼も夜も身を削って、俺の学費と生活を守った人。
俺が医者を目指せたのは、姉が踏みつけられた夢の上に立っているからだ。
だから、黙っていられなかった。
「姉を侮辱しないでください。姉は俺を育てるために必死で頑張ってくれたんです」
しかし義父は鼻で笑い、言葉を遮った。
「うるさい! 親がいない貧乏人に娘はやらん! 二度とツラ見せるな! 玲子とも、私たちとも金輪際関わるな!」
座敷の空気が裂けた。
俺は怒りで視界が白くなりかけた。玲子の目には涙が溜まり、義母は先ほどまで出していた茶菓子を不機嫌そうに片付け始める――まるで、俺たちが「汚れ」だと言わんばかりに。
そのときだった。
これまで沈黙していた姉が、ゆっくりと口を開いた。
唇の端に余裕たっぷりの笑みを浮かべて。
「……金輪際、関わるな、ですか」
姉は頷くように、そして楽しそうに言った。
「その言葉、待ってましたよ」
義父母も同じように姉を凝視していた。
姉は慌てることなく、ジャケットの内ポケットから名刺を取り出した。
「申し遅れました。私、こういう者です」
名刺を受け取った義父の顔が、みるみる青くなる。
義母の手が止まり、茶碗が小さく鳴った。
――大手銀行、支店長。
姉音の肩書は、医師一族の「格」を一瞬で無意味にするほど重かった。
姉は淡々と続けた。
「白崎さん。あなたのところ、ここ最近ずっと赤字ですよね。融資のご相談、何度もいただきましたけど……正直、審査は厳しいです。経営が傾いているのに対策がなく、借りれば何とかなると思っている。銀行はそんなに甘くありません」
義父の喉がひゅっと鳴った。
目の焦点が揺れている。
俺はそこで初めて悟った。
義父が俺を「資産のない貧乏人」と決めつけて追い返したのは、玲子の幸せなどではなく、自分のクリニックの延命のためだったのだ。
義父は突然、腰を折った。
「ま、まさか支店長だなんて……! 知っていれば、あんな失礼なことは……!」
義母も作り笑いを貼り付け、さっき片付けた茶菓子を慌てて並べ直す。
「ほら、こちらおいしいお菓子ですの。どうぞ……」
姉はため息をつき、きっぱり言い切った。
「今さら遅いです。あなた方がどういう人間か、よく分かりました。――私たちは、今後一切関わりません」
義父が俺にすがるような視線を向ける。
「おい卓也くん、君は玲子と結婚したいんだろ? なら今すぐ結婚させてやる。だから融資の件を……!」
俺は即答した。
「無理です。玲子のことは大切に思っています。でも、それとこれとは別でしょう」
義父の顔が歪み、再び怒りが噴き出す。
「生意気な! 新米医者がこの私を敵に回す気か! 私は人脈があるんだ、医学界全体を敵に回すようなものだぞ!」
その瞬間、インターホンが鳴った。
義母が不機嫌そうに立ち上がり、玄関へ向かう。やがて戻ってきた彼女の顔は困惑で引きつっていた。
そして、後ろに立っていた男を見て、俺は声を失った。
「……兄さん?」
そこにいたのは、幼い頃に家を出た兄、原田聡だった。
「話は聞いた。医学界を敵に回す? 随分と威勢がいいな」
義父は「誰だ」と吠えかけ――兄の名乗りを聞いて凍りついた。
「原田聡。大学病院で教授をしている」
空気が変わった。
義父の顔から、最後の強がりが剥がれ落ちる。