ホテルのラウンジ、目の前に知らない女性――マリ。息子の健三の隣に座るその女性が、私を見据えこう言った。「お腹に子供がいるんです。離婚してください」
一瞬、言葉が頭を通り抜けなかった。隣の健三は目をそらすばかり。私たちは、子供を作らないと決めて結婚したはずだった。なのに、目の前で別の女性が妊娠していると言う。十年の絆が、ほんの数分で揺らぐ瞬間だった。
私は静かに答えた。「離婚は、しないことにするわ」
マリの表情が一瞬凍りつく。健三は声を出さず、ただ私を見つめていた。渡された二百万円の封筒も、そのままバッグにしまった。慰謝料は受け取った。しかし、それで離婚を認めるつもりはない。法律上、私が同意しない限り、離婚は成立しない。
静かな勝利感が胸に広がった。裏切った二人の思惑は、すべて私の冷静さの前で崩れた。建造もマリも、もう私の人生に干渉できない。私はコーヒーを最後の一口まで飲み干し、ぬるくなった味さえも悪くないと思えた。
数週間後、マリのSNSには怒りと悲しみの投稿が続くが、私は淡々と記録を残しつつ、既読スルー。誰にも振り回されず、自分の人生を取り戻す――それが私の選んだ道だった。
離婚届をテーブルに置き、封筒をバッグにしまった瞬間、私は知った。怒りも悲しみも、もう必要ない。私の人生は、私が決める。