夕方六時頃、インターホンが鳴りました。
モニターを見ると、見覚えのない夫婦が立っています。
夫が応対すると、開口一番こう言われました。
「今朝預けた子どもを迎えに来ました。」
私も思わず玄関へ出ました。
「申し訳ありませんが、人違いではありませんか?」
すると女性は私の顔を見るなり、
「あんた誰?」
と逆に驚いたのです。
話を聞いてみると、ようやく原因が分かりました。
私たちのアパートは、一階と二階の玄関が並んでいる少し変わった造りです。
夫婦は二階の私たちの玄関を、一階に住む友人宅だと勘違いしていたのでした。
しかも驚いたのは、その後です。
「朝七時に子どもを置いてきました。」
「インターホンを押して、『よろしくね』って声をかけたので。」
私は耳を疑いました。
「えっ……返事は確認したんですか?」
「電話もしましたよ。留守電だったからメッセージも残しました。」
しかし、その友人に電話をかけ直すと、まったく知らない人が出ました。
電話番号はすでに変わっていたのです。
さらに不動産会社を通じて確認すると、その友人は前日から県外へ出張中。
つまり、その家には誰もいませんでした。
その瞬間、全員の顔色が変わりました。
「じゃあ……子どもは?」
家の前には用水路があります。
周囲は建築中の住宅ばかりで、大きな重機も動いていました。
もし一日中一人で歩き回っていたとしたら——。
誰も最悪の想像を口にはしませんでしたが、頭の中では同じことを考えていました。
すぐに警察へ通報。
近所にも声をかけ、みんなで子どもを探し始めました。
その一方で、放置した夫婦は夫婦喧嘩を始めます。
「お前がちゃんと頼んだって言っただろ!」
「だって二日前に会った時、『連休は予定ない』って言ってたじゃない!」
夫が呆れて聞きました。
「預かってほしいって、ちゃんと許可はもらったんですよね?」
すると奥さんは目を泳がせ、小さな声で、
「……ちゃんとは聞いてない。」
その場の空気が凍りました。
予定がないことと、子どもを預かることはまったく別です。
そんな当たり前のことさえ考えず、朝七時に幼い子どもを置いて夫婦で遊びに出かけていたのです。
それからしばらくして——。
遠くから泣き声が聞こえました。
見ると、小さな男の子が一人で歩いてきます。
警察官が駆け寄ると、男の子は泣きながら、
「おうちが分からなくなった……。」
と話しました。
事情を聞くと、近くの建築途中の家へ入り込み、そのまま迷ってしまったそうです。
もし足を踏み外していたら。
もし重機が動いていたら。
もし用水路へ落ちていたら。
そう考えただけで背筋が寒くなりました。
警察は放置夫婦を厳しく指導し、周囲の住民も怒りを隠せませんでした。
騒ぎが落ち着いた頃、私はようやく思い出しました。
実はその日の朝、私たちが留守だった理由。
私は新型インフルエンザで四十度近い熱を出し、夫に付き添われて病院へ行っていたのです。
帰宅後も熱でふらふらだった私は、マスクを付ける余裕もなく、玄関先であの夫婦と長い時間話していました。
数日後。
近所の人から聞きました。
「あのご夫婦、そろって高熱で寝込んだらしいよ。」
私は何も言いませんでした。
一番守るべきだった子どもを、確認もせず玄関先へ置き去りにした結果。
その日の代償は、夫婦が思っていたよりずっと大きかったのです。